豊川高等学校(愛知)
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結果を出したことで、次への目標が育まれていく
今春、甲子園初出場を果たした豊川。フレッシュな赤のタテジマのユニフォームが甲子園に躍動して、ベスト4に進出。バッテリーを中心とした確実な野球を推進していく一方で、選手個々が伸び伸びとプレーしている印象が強かった。そんな豊川の、魅力を探ってみた。
充実した施設とスタッフで、思う存分練習できる喜びを目いっぱい感受
日本三大稲荷の一つの豊川稲荷。そのお膝元で、母体となっている豊川閣妙厳寺は曹洞宗の寺院だ。そこに奉られている神様が白い狐にまたがっているというところから、「狐のお稲荷さん」ということになったとも言われている。そして、その妙厳寺へ修行にくる若い僧のために創設されたのが豊川学堂で、1928(昭和3)年に豊川閣の中に設置された。当時は、夜間中学だった。これが、現在の豊川高の母体となっている。
JR豊川駅に掲げられている横断幕
むしろ、他の部を追いかける立場でもあった野球部としても、森福允彦投手(現福岡ソフトバンク)を擁していた2003、04年と夏の愛知大会で連続準優勝。秋季県大会も昨秋含めて過去6度準優勝を果たすなど、何度も甲子園が手の届くところまでたどり着いてきていた。しかし、なかなかその壁を突破することが出来なかった。それが、昨秋の東海地区大会で準優勝を果たして、センバツ出場を果たすことが出来たのだ。
チームを率いる今井 陽一監督は自身、中京(現中京大中京)時代には甲子園出場を果たし、ベスト4、ベスト8進出を果たしているチームで一番センターを務めていた。その後、社会人野球の北海道拓殖銀行でプレーをした。
豊川の監督に就任したのは昨夏の愛知大会以降で、まだ就任1年も経過していない。しかし、それ以前の07年12月からコーチとしてチームを指導していた。そして、それまで監督を務めていたのが、現在の森 昌彦コーチである。実は昨夏の大会終了時点で、コーチと監督という立場を交代したという経緯がある。森コーチは96年のアトランタオリンピックの代表でもあり、抑えの切り札として活躍し、銀メダル獲得に貢献しているという実績がある。
その森コーチと今井監督は、全盛を誇った中京時代の同級生でもあるのだ。
「このチームで全国制覇が出来なければ、監督を辞してもいい」
と断言していた当時の杉浦 藤文監督は、準々決勝で水野 雄仁投手を擁する徳島池田に敗退すると、本当に辞任してしまった。二人は、そんな強力なチームを体験してきたメンバーである。
その二人の二人三脚でチームを作り上げてきたのである。専用球場を保有していて、恵まれたスタッフと、高校野球を学ぶには申し分ない環境ともいえるのだ。
「実際にやっていることは、森コーチは投手を中心にバッテリーを見て、私の方で野手を見ているというスタイルで以前から変わっていません」
と言う。そんな中で育ってきた投手が、甲子園でも活躍した田中 空良君だった。
「当初は、田中と阿部(竜也)と落合(旺)とで競わせていこうと思っていたのだけれども、秋季大会を通じて田中がぐっと成長した」ということで、エースとなった。
そして、そんな田中投手の良さを引き出していったのがチームの主将でもある氷見泰介捕手だった。こうして、バッテリーを中心とした形のチームとして初めての甲子園に挑んだ。
ブレない心で、すべてがうまく回っていくようになった
豊川・今井陽一監督
それでも、豊川の田中投手もストライクからボールになるスライダーがキレていて、そうは打ち込まれないという投球だった。
日本文理戦での収穫は、8回あたりから選手たちの集中が違ってきたということである。いわゆるゾーンに入った状態になって行ったのだ。その要素を導き出したのが、アルプススタンドを赤一色に染め尽くしてくれた応援の力だったという。そんな力にも後押しされて、1点負けていた9回の最後の攻撃で追いつくことが出来て延長にもつれ込ませた。延長でも、表に点を取られても再び追いつくという、驚異的な粘りをみせた。
9回は、このままだと流されてしまうと思い、今井監督はあえて安打で出た主将の氷見に代走を出すなど仕掛けて行った。
「試合を動かさなくてはいけないと思いましたから、一か八かの勝負を賭けました」
という場面だった。点が入らなければ試合は負け、追いついても逆転出来なければ試合は延長戦となるが、守りの要の捕手であり、三番を打つ中軸でもある主将を欠いての戦いとなる。その時、捕手に入るのは控えの2年生今井 竜司だ。今井監督の次男でもある。
「場合によっては、息子を試合に出したいがために、そういう采配になったという批判を受けるかもしれないということまで考えました。そこまで覚悟しても、試合を動かさなくては…と思いました」
という、今井監督の賭けだった。
それに、選手たちは応えた。二死二塁から追いついた。しかし、試合はそのまま延長に突入して、10回表に日本文理に2点を奪われる。さすがに、豊川の粘りもここまでと思われたが、その裏、山田大地の三塁打などで再び同点に追いついた。山田君に関しては当初は、今井監督は先発メンバーで起用するかどうか迷ったくらいだったという。ところが、1打席目で日本文理の飯塚投手を捕えて、いい感じでチーム初安打を放つと守りでもファインプレーを見せた。
「空が投げて、大地が打つ」この大会の豊川旋風を象徴するかのように、天と地に届く粘りを呼び込んだのだった。
こうして、延長はさらに続くことになったのだが、ゾーンに入った選手たちの意識はブレなかった。そして、延長13回には10回の守りから途中出場していた今井君が四球を選んだことが切っ掛けとなり、最後は6461が左中間に二塁打してサヨナラ勝ちとなった。
「アルプススタンドの人たちの気持ちが伝わってきて、それが打たせてくれたのだと思います」と、今井監督は振り返った。
こうして豊川は、2回戦では今井監督の因縁となる徳島池田との対戦となった。2回に打線が爆発して4点を奪い、そのリードを田中投手が1失点で守り切った。
「実は、前日の打撃練習がこれまでになくよかったんですよ。むしろ、よすぎたくらいでした。それが2回には出せたのですが、それ以降が強引になったのは少し反省でした」
と振り返るが、大会の中の流れとしては、決して悪いものではなかった。
つまり、豊川としては第86回選抜大会というミドルスパンの流れに上手く乗れたということなのである。そして、その流れを導いたのが、初戦の日本文理戦での9回裏に仕掛けた、一か八かの賭けだったのである。
[page_break:一度呼び込んだ流れは、個々の自信となっていった]一度呼び込んだ流れは、個々の自信となっていった
豊川の勢いは、準々決勝でも衰えることはなかった。明治神宮大会の優勝校でもあり、力では1枚上と見られていた沖縄尚学に対して先制攻撃を仕掛け、初回に3点を奪うなど3回までの序盤に6点を入れた(2014年03月31日)。田中投手は9安打されながらも2失点に抑えて、初出場でベスト4入りを決めた。
選抜では5割を超える打率を残した中村選手
インフルエンザでやむなく離脱する選手も現れたのだが、大会を通じての豊川ヘの流れは途切れていなかったのだ。今井監督は、力のあるストレートを投げ込んでくる沖縄尚学・山城大智投手対策として、バットを一握り短く持つことを指示した。そして、選手たちはそれに素直に順応して、コンパクトなスイングを心がけた。それが、先頭打者の中村胤哉の安打から、如実に表れて序盤の勢いを作ったのだ。この試合で3安打した中村は、大会を通じて5割以上の打率を残した。
「監督さんが掛けてくれた、プラスの言葉が励みになりました」
と、好調の原因を語る。
準決勝の履正社戦は、田中投手が疲労もあって、長いニングは難しいと判断した今井監督は、先発マウンドを阿部竜也に託した。
「5回までもってくれて5点失点までは大丈夫」という言葉を受けていたが、阿部投手は5回までを無失点に抑えた。嬉しい誤算だった。その後リリーフした田中投手が打たれて、リードを許してしまったが8回に一挙5点を入れひっくり返した。
試合は結局、延長の末10回、投げる投手もいなくなってしまい力尽きる形で5点を失い決勝進出はならなかった。しかし、豊川が今回の甲子園に残したもの、甲子園で得たものは大きかった。
「選手たちには十分に、やり切った感はありました。リードされても、何とかしよう、諦めないでやろうという気持ちが本当に表れていました。試合後に愛知県高野連の森(淳二)理事長からも、涙を流さんばかりに称えて戴きました。そして、本当に嬉しかったのは、『長いこと高校野球を見てきたけれど、今年の豊川には久しぶりに心から感動させられました』というメールや、言葉をかけて貰えたことです」
と、今井監督は大会後の感動を振り返る。
そして、今回の収穫としては、
「選手たちは、(甲子園の)土を持ち帰りませんでした。それは、夏もまた必ず来るんだという気持ちの表れだと思います。それに、今までは言葉だけの日本一になるということだったかもしれませんが、実際にそこに手が届くところまで行けて、本気で『やれば出来る』という気持ちになれたことですね」
と、まさに、戦いながら成長して自信を持っていった選手たちの気持ちを称えた。
学生コーチを中心に具体的な練習を回していき問題解決能力がアップ
学生コーチの渋沢拓夢
豊川の日々の練習の特徴として、学生コーチという立場がある。渋沢 拓夢選手がその役を担っているのだが、グラウンドでの具体的な動きは渋沢を中心に行われていく。もちろん、基本的なメニューは今井監督と森コーチとで作っていくのだが、選手たちの調子や課題の克服具合などは、むしろ渋沢を通じて確認していくことが多い。そして、彼自身も、そういう自分の役割にやりがいを感じているのだ。
こうしたスタイルをとることによって、何か困ったこと、行き詰まったことがあったとしても、最初に自分たちで話し合って考えるようにしているという。こうして、問題解決能力があがっていく。学年ごとのミーティングを行い、その上で渋沢が取りまとめて、それを今井監督なり森コーチ、青山 弘和部長に報告していくという形なのだ。
平日の練習は通常は授業後、16時から20時頃までとなっている。土、日が試合となることが多いので、基本的に月曜日は自主練習日としてある。火曜日は、ランニングやトレーニングなどを多くした体力作りメニュー。水曜、木曜が実戦形式の練習がメインで、金曜日が試合前の調整メニューというのが1週間の主な流れである。
自主練習の日は、あえて今井監督らは顔を出さないようにしているが、そんな時にも渋沢学生コーチがそれぞれの練習の状態をチェックしていくというスタイルをとっている。渋沢君は、現在は亜細亜大でマネージャーを務めている1年先輩の宮野 泰支の姿を見て、それに憧れて学生コーチとして縁の下でチームを支えていくことを自主的に選択した。甲子園での快進撃の背景には、そんな要素も十分にあった。
そして、新たに見えてきた夏への課題もある。炎天下の連戦となる夏へ向けて、田中空良に続く投手を育てていくこともそうだ。また、激戦愛知の中で、間違いなく追われる立場となっていくのだが、
「春の甲子園ベスト4だけれども、それで受けて立つことだけはしないようにしなくてはいけない」
と、今井監督も気持ちを引き締めることには余念がない。しかし、その一方で
「一つの実績を作ったことで、(中京大中京、東邦、愛工大名電といった)伝統校に対しても“暖簾負け”しないで互角に戦える気持ちにはなれるはず」
と、確実に成長している選手たちの気持ちを信じている。
今回の豊川の活躍を見て、大会を通じて起きる『流れの正体』の一部を見せられたような気もした。そして、それはもしかしたら豊川稲荷の御本尊でもある豊川閣妙厳寺に奉られている白狐が運んできたのかもしれない。昨年秋までは、その定紋をデザインしたユニフォームを着用していた。しかし、甲子園では校章ではないということで却下となり、変更を余儀なくされた。
ところが、その新ユニフォームが流れを運んできたのである。もちろん、それを呼び込んだのは、選手たちの思いであり、常に自分たちで考えることを主体としているというチームの意識にあったということは十分に伝わってきた。
(文・手束 仁)