目次

[1]サッカーからヒントを得た「ノーサイン」野球
[2]4人1組の変則キャッチボール
[3]中等部の硬式チームが刺激に

サッカーからヒントを得た「ノーサイン」野球

東亜大時代に部長・監督として
計3回の日本一を導いた中野 泰造監督

 就任して5年目を迎える。中野泰造監督には勝利した試合後の取材で口癖のように答える言葉がある。

 「私は何もしていない。生徒のおかげで勝てました」

 試合中、指揮官はベンチでほとんど動かない。笑顔で選手を称えて見守っている。そこにはチーム全体の1つの方向性があった。
「僕は、ノーサイン野球をやってみたくて高川に来ました。自分もパワーでなく足を使ったり、自分で考えたりする野球をすることを聞いたときに〝やってみたい〟という気持ちになりました。
 ずっと、サインは出ないです。それだけ対応力が必要だと思っています」
 安 健太内野手(2年)は胸を張った。

 『ノーサイン野球』は新生・高川学園の礎となっている。ヒントはサッカー、ラグビーにある。
 中野監督は説明する。
「グラウンドに出ればプレーするのは選手。だから監督から、ほとんどサインを出すことはありません。
 サッカーやラグビーは試合が始まったら細かな指導ができない。私のやり方はそのやり方に似ていると思います。

 選手の将来を考えた場合、試合途中で選手に細かく指示を出すことは避けた方がいい。試合が始まったら選手の自主性に任せます。そのことで選手が大学や社会に出て行ったときに役に立つと思っています」

 グラウンドに出れば選手の自主性を尊重する。選手の将来を考えて『やらせる野球』から抜け出すことから始まった。

 高川学園は近年、目覚ましい成長を遂げている。
 中野監督が2009年に就任。2010年春には山口大会で優勝、中国大会で準優勝した。13年夏には決勝で岩国商に屈しながらも準優勝。新チームになってからも快進撃が続く。秋季山口大会で準優勝。中国大会では準決勝で広島新庄に2対3で惜敗しながらもベスト4まで進出した。1984年(当時の校名は多々良学園)以来、30年ぶりのセンバツ出場への可能性を残した(取材日、2014年1月5日現在)。

中野監督を慕い茨城から
山口の高川学園へ入学した4番で主将の川崎 喜公選手

 最上級生となった現2年生の世代は順風満帆とは言えなかった。1年生大会では1勝もできずに敗退した。

 「1つ上の先輩世代から見れば、弱く見えると思います。1年生大会では1勝もできずに終わったところから始まった。危機を感じながらやっていました」と主将の川崎 喜公外野手(2年)は振り返る。

 工夫、努力で這い上がってきた。

 中野監督は奈良県高校教員時代に高田(定時制)、北大和(現奈良北)、桜井商の監督を歴任。
 最も名前を知られるようになったのは東亜大の監督になってからだった。

 監督として2回、部長として1回、計3回も大学日本一に導いた(いずれも明治神宮大会)。
 中東 直己外野手(現広島、当時は捕手)は教え子の1人だった。天理大監督を経て09年に高校球界に復帰。高川学園高等部監督に就任した。

 「長く指導してきて考え方が変わってきました。若い頃は選手に押し付けるような練習が多かったように思います。
 でも、長い間やってきて、それでは選手、生徒のためにならないと気付きました。練習の中身も変わってきました」
 練習は実戦形式が多い。高川学園が進化したのは練習方法にあった。普段の練習は紅白戦や実戦形式の練習が主流だという。
 取材した1月5日は正月休み明け2日目ということで、実戦練習を控えた内容だった。それでも組まれた練習内容は実戦を意識したものだった。

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