県立久米島高校(沖縄)
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タクシーの運転手が、ラジオのボリュームをあげる。
「入った―!!3ラン!!久米島高校、サヨナラホームラン!!」
この日、島のラジオからは、球場にいる島民からの中継リポートが流れていた。11年ぶりのベスト8進出をかけた地元・久米島高校の躍進に、多くの島民たちが心踊らせた。
11年ぶり2度目のベスト8進出につながった全力疾走
2012年夏、久米島高校は就任2年目の嶺井政彦監督のもと、沖縄大会初戦から熱い戦いを繰り広げた。
1回戦の北谷戦では、延長15回、7対7の引き分け。6日後の再試合では、雨による3時間の中断をはさみながらも、最後まで集中力を切らさなかった。
この試合、久米島は2回に二者連続スクイズで2点を奪うと、投げては、先発・安村太樹が、12奪三振の好投。3回に1点を返されるも、そのまま逃げ切り、2対1で北谷との再試合をものにした。続く2回戦の南部商を3対1で勝利。過去5年間でも、夏の沖縄大会で3回戦に進出したのは、一度きりだった久米島にとって、この年の勝ち上がりは、すでに島の中でも大きな話題となっていた。
▲久米島 嶺井政彦監督
3回戦の宜野湾戦には、久米島からのチャーター便で多くの島民が応援に駆けつけた。
久米島は、2回に先制点を奪われるも、その後、先発・安田功の好投もあり、両者無得点のまま、9回に突入。9回表をリリーフの安村大樹が無失点に抑え、0対1の1点ビハインドで迎えた9回裏の久米島の攻撃。
先頭打者のキャプテン・山里恒二の打球はショートの前に転がる。内野ゴロであっても、大きな足音を立てて、全力で走る山里の姿に、相手野手が捕球前に一瞬ランナーをみる。山里の一塁到達と、ショートからの送球は、わずかな差だった。
塁審が両手を横に大きく広げた瞬間、久米島高校のスタンドとベンチが一気に沸き上がる。キャプテン・山里の執念の内野安打。これが、ドラマの始まりとなった。
続く、3番・安田望がバントの構えからバスターを仕掛けると、打球は高いバウンドとなり、前進守備をとっていた三塁手の頭をこえた。これで、無死一、二塁とすると、4番・宇栄城陽二が、センターへの犠飛で、同点のランナーを三塁へ進める。
続く打者は、この試合リリーフでマウンドに上がっていた5番・安村大樹。
「負けたら終わりの場面。まずは1点を取るために犠牲フライを狙いました」と、内角ストレートを弾き返した安村の一振りは、レフトの頭上をこえ、そのままスタンドに入った。
サヨナラの3ラン――
「打った時は、何が起きたか分からなかったけど、ベンチやスタンドの皆さんが拍手をしてくれて試合に勝ったんだと分かった。本当に嬉しかったです!」(安村)
久米島高校野球部にとって、11年ぶり2度目のベスト8進出となった。
その後の準々決勝の沖縄尚学戦で、久米島はあっけなく散った。
0対11の5回コールド。それでも、島で唯一の高校が魅せた夏の軌跡は、野球熱の高い久米島の人々の心に、しっかりと刻まれた。
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野球部再建に向けて嶺井監督が赴任
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▲全力疾走の練習風景
「目指せ、甲子園!」「私を甲子園に連れてって」
もう何十年も前から島のあちらこちらに、そう書かれた手作りの横断幕が張られている。誰が書いたのかは分からないが、住民たちからのメッセージから、島全体の野球熱の高さを感じさせる。もちろん、この言葉は久米島高校の校庭にも、張られている。
だが、久米島高校野球部には、それまでの5年間、教員監督がいなかった。その間は、地元の方が監督を任され指揮を執り、着実に自力をつけ始めていたが、部員数も1学年平均5名程度。紅白戦さえ、出来ない現状があった。
さらに、島にある3つの中学校の野球部員たちも、力のある選手のほとんどは、高校は沖縄本島の強豪校を選び、中学卒業と同時に島を離れていく。それは野球部だけの実状ではなく、高校自体も入学してくる生徒数も年々減っていた。
そこで当時、沖縄本島の高校で指導していた嶺井監督に、学校と野球部の再建を期待して、声が掛けられたというわけだ。
2011年春、単身赴任で久米島高校にやってきた嶺井監督は、6月に沖縄大会初戦でチームが敗退した翌日から、正式に監督に就任した。
そして、この日から、久米島高校野球部の練習が変わった。
これまで、バッティングが中心だった練習メニューは一転。グラウンドの中では、ひたすら基礎練習が繰り返される。守備では、ノック時のカバーリング。グラウンド内での全力疾走。出来なければ、何度も何度もやり直しをさせた。
そんな嶺井監督の指導に、部員たちは真っ向から反発した。
「外から来た人間が何言うか?今まで俺たちがやってきた野球と違う。俺たちは、もっと楽しくやりたい!」
▲久米島高校野球部 投手陣
嶺井監督は答えた。
「お前たちは、こうやって『目指せ甲子園』と大きな目標を掲げてるわりに、実際にやってることとギャップがあるよ。全力疾走を馬鹿にするな。馬みたいな足音立てて、野手にプレッシャーかける。その重要性が分からないだろ?それが分からなければ、甲子園なんて遠いよ。この目標、はがしたら?恥ずかしいよ。島中に貼ってある横断幕も、今すぐ剥がしてくれば?」
新チームが始まってからの2ヶ月間、毎日このやり取りの繰り返しだった。
そこで、夏休みのある日。嶺井監督は、保護者と部員たちを全員集めて、保護者会を開いた。
「その場で、僕の考え方と指導方針を伝えました。もし、僕の考え方に部員や保護者の方々に異議があれば、僕は野球部から身を引きますと。だけど、その日、異議は出なかったんです。それで、翌日からまた練習を再開をしました」
嶺井監督の言葉は、厳しく聞こえるかもしれないが、難しいことを求めているわけではない。一球の大切さ、勝利への貪欲さ。スピードあるプレーや、粘ることの大切さを伝えたかっただけだ。その姿勢こそが、強い人間を、そして強いチームを作り上げると信じていた。
しかし、離島であるがゆえの大きな欠点があった。
離島であるハンデを物ともしない『久米島野球』
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久米島は、離島であるがゆえに、他校との比較ができない。
「全力疾走といっても、何をスピードというのか分からないんですよね。沖縄本島の部員は、他のチームの取り組みを練習試合を通じて実感できるけれど、比べられるチームがこの島には他にないんです。この子たちにどうやって高校野球のスタンダードを実感させるのかに悩みました。
練習試合といっても、船で島を出るのも年に3~4回。年間で6~8試合しか出来ないんです。だからこそ、僕が、しつこいほどに言葉と実践の繰り返しで、彼らに徹底させていきました」
1つのプレーに対し、少しでも手を抜いていれば、その度に嶺井監督は練習をストップさせ、やり直しを求めた。それを最初の半年間は嫌々、従っていた部員たちも、練習試合で少しずつ結果が出るにつれて、嶺井監督の言葉を信じ始めるようになったという。
「年に数回の練習試合でも、全力疾走したら相手がエラーしたとか、カバーリングしたら、本当にそこにボールが来たとか。試合の中で、いつも僕が言っている瞬間が訪れた時に、気付くんですよね。それで、また島に戻ってきてからの練習が、以前とは一皮むけているんです。その繰り返しです。時間はかかりましたけど、彼らはとても素直な子ばかりなので、納得し始めてからの成長は本当に早かったですね」
▲嶺井監督の指導は今年で3年目に
冬を越えてからのチームは、さらに成長を遂げていた。
シーズン開幕に向けた実践的な練習は、紅白戦や練習試合などで補えないだけに、日頃の練習からの緊張感、つまりドキドキ感を大事にさせていったという。
「わざと緊張させた状態での練習をしました。緊張した状態で何度も何度も久米島高校のグラウンドで練習をさせることで、試合経験が少なくても、本番で力が発揮できると思ったんです。
例えば、ノックではバウンドが合わないように、わざと取りにくい体勢で取る練習をしたり、味方野手が暴投した時の守備練習をしたり。それも誰かが出来なければ、全員で腕立て伏せをするなど。普段の練習でのドキドキ感を大事にしました。
もしも、無死満塁の場面を迎えたら、ひきつった笑顔よりも、ドキドキしたほうがいいと思う。そのほうが、本番を楽しめるかもしれないですからね」
そして、3月22日に行われた春季大会1回戦では、北谷に延長10回の末、3対2で勝利。チームの粘り強さが出てきたのも、一冬越えてからだ。2回戦は、興南に敗退したが、夏を迎えた時には、選手たちからは、こんな言葉が出るようになっていた。
「秋と春の結果を見たら、自分たちは強いチームではないと思われるかもしれない。でも、夏は、不思議と負ける気がしなかった。みんなが、そう信じていました」
また、当時の3年生部員たちが、嶺井監督と出会って僅か一年の間に、彼らは多くのことを学ぶことが出来たと話す。
「日が経つにつれて、監督の言うことも分かってきました。野球だけを教えているのではなく、僕たちの性格、そして日頃の行動から正そうとしてくださった。
監督が就任して4ヶ月ほど経った時に、自分たちが間違っていたと気付きました。今、考えたらなんであの時、反抗したのかなって思います。監督に、ついていったことで、結果も出ましたし、僕ら自身も野球だけでなく、内面的な部分まで成長することが出来ました」
▲背中には「向上無限」の文字
嶺井監督の教えが、“久米島野球”として、浸透しているのが垣間見られたのが、前述した夏の沖縄大会3回戦での9回裏の攻撃だった。
先頭打者のキャプテン山里が、ショートゴロを内野安打にしたあの走塁である。嶺井監督が就任当初から何度も何度も伝えてきた、相手にプレッシャーを与えるための全力疾走。
この教えと実践こそが、起死回生の3ランを呼び込む土壇場での出塁を成功させた。
かつて久米島の人々は、島の高校からの甲子園出場を夢見ていた。
しかし、昨夏以降。部員たちは、島の人々から、こう声を掛けられるようになったという。
「次はなんとか、ベスト4だな」
もう甲子園は遠い目標ではない。1つ1つ、確実に上に行くことで、たどりつける夢となった。
就任3年目の春を迎えた嶺井監督も、新2、3年生の部員たちも、そして久米島の人々も今、たしかに同じ方向を見ている。
(文=安田未由)