帰ってきた古豪

 「私が甲子園に出場した年の熊本大会決勝。最後のアウトはキャッチャーへのファウルフライでした。私はそこで初めて『甲子園』がちらつき、マスクを投げ捨てた時には、落ちてくる球がふたつに見えました。ちょうど対戦相手の熊本工ベンチ前。スタンドからは『落とせ!』、『落とせ!』という悲鳴のような声が飛び交っていました。そして自分はどっちを捕ればいいのだろうと思いながら、手を伸ばした方に球が落ちてきてくれた。甲子園出場とは、それぐらいのプレッシャーが掛かるものなんですよ」
 済々黌が1990年の選手権大会に出場した際のレギュラー捕手が、当時2年生の池田満頼だ。現在の済々黌・池田監督である。

 甲子園での初戦。花巻東とのゲームで、池田は初球に直球を要求している。池田は右田淳の投じたなんでもないストライクボールを、捕球することすらできなかった。また、先頭打者を遊ゴロに打ち取ったものの、なんでもない送球を一塁手の松本琢磨が落球。“緊張感”ではなく“高揚感”に浮き足立つ済々黌ナイン。

末次義久(済々黌・元監督)

 その夏から、22年が経った。この間の熊本県といえば、熊本工が安定的な強さを維持し、九州学院が強打でこれに双璧をなすという時代である。さらに城北秀岳館などが入れ替わり立ち代りで食い込んではいるが、九州初のセンバツ優勝校でもある古豪は、1994年の選手権に一度出場しているのみだ。
 聖地から遠ざかった済々黌は、2001年に池田監督が就任。甲子園出場経験があり、慶応大で野球を学んだ池田監督を「間違いない」と推薦したのは末次義久・済々黌元監督だった。1958年の第30回センバツ大会で優勝した際の主将で、紫紺の大優勝旗を握り締めて初めて関門海峡を渡ったその人である。

「学校教員だと転勤があって、チームが成長したところで指導者は交替してしまう。それでは困る。しかし、外部の監督となると、これもなかなか難しい。そこに池田の存在があった」

 当時、大学を卒業して熊本の肥後銀行に勤務し、軟式部でプレーしていた池田監督は、恩師からの要請を受諾。さぞや苦悩の末の決断だったに違いない。しかし、池田監督本人は「安請け合い程度のふたつ返事だった」と振り返っている。

「いやいや、自分はいいっスよ」
「いや、銀行を辞めてこい」(末次元監督)
「そうですか」

 そんな会話の中で、監督就任は決定した。「ちょっと考えさせてください」という時間もなかったという。その1ヶ月後に勤務先の銀行を退職し、チームに合流し、名門復活に向けての指導を本格化させたわけである。

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