第994回 揺らがぬ「日本一」の志 自ら考え、行動する人間になれ! 神村学園女子硬式野球部【前編】2019年12月16日

【目次】
[1]野球経験者ゼロからスタートした神村学園女子硬式野球部
[2]選手獲得競争は厳しさを増す
「20年前に比べたら、女子野球のレベルはかなり上がりました」
橋本徳二監督は言う。日本の高校で最初にできた女子硬式野球部の監督に就任した1997年から20年余りの間で女子野球のレベルが格段に向上したことを肌で感じている。
特に女子プロリーグができた2010年以降、この10年間が顕著だ。ただ皮肉なことに裾野が広がり、レベルが上がったのと軌を一にして、神村学園は全国大会で勝てなくなった。全国制覇は春3回、夏6回の計9回を誇るが、07年の春選抜以降、優勝から遠ざかっている。
ライバルの登場、選手勧誘の難しさ、練習環境や試合経験…様々な要因は考えられるが、彼女たちの「日本一」を目指す志はいささかも揺らぐことはない。
野球経験者ゼロからスタートした神村学園女子硬式野球部

高校女子硬式野球部の老舗・神村学園が再び日本一奪還を目指す!
「『98年4月に女子の硬式野球大会が甲子園で開催される』という記事がどこかの新聞に出て話題になりました。『ならば!』ということで最初に手を挙げたのがうちの学校だったそうです。もっとも実際には甲子園で開催されませんでしたが…」。橋本監督が設立の経緯を語る。
天理大卒業と同時に教員として神村学園に赴任。全国各地からやってきた「1期生」は8人だった。その頃の選手に野球経験者はいなかった。ほとんどがバスケットボールやバレーボールなどからの転向組。
唯一ソフトボール経験者が栃木からやってきた小林千紘である。のちに明治大に進み、女子で初めて東京六大学リーグの公式戦のマウンドに上がった小林は「女子で130キロ出した!」と話題になり「女・松坂」として注目された。ちなみにこの130キロは非公認のもので「実際は115キロぐらいだったのでは? あの頃、女子の球速は平均90キロぐらいだったので、小林の115キロが特別速く感じられたのだと思います」(橋本監督)。
時を経た今は女子でも120キロ前後を投げる投手はさほど珍しくなくなった。この20年のレベルの向上を象徴している。
女子の大会が産声を上げた同時期に、高校で女子の硬式野球部を立ち上げたのは神村学園のほかは埼玉栄、花咲徳栄など全国で5校だった。大会には20チームほどが毎年出場していたが、ほとんどがソフトボール部で硬式野球を兼務しているチームだった。
本気で硬式野球をしたい選手の受け皿が限られていたから、全国から優秀な選手を集めることができた。全盛期の頃は厚ケ瀬美姫(京都フローラ)、里綾実(愛知ディオーネ)ら、のちの女子プロリーグの草創期を彩った実力者がいた。

- 政 純一郎(つかさ・じゅんいちろう)
- 生年月日 1974年12月18日
- 出身地 鹿児島市
- ■ 経歴
鶴丸高校―同志社大 - ■ 鹿児島新報で6年間スポーツ担当記者。2004年5月の同社廃刊後、独立
- ■ 「スポーツかごんまNEWS」を立ち上げ、野球、バスケットボール、陸上、サッカーなど主に鹿児島のスポーツを取材執筆する。2010年4月より奄美新聞鹿児島支局長を兼務
- ■ 著書に「地域スポーツに夢をのせて」(南方新社)「鹿実野球と久保克之」(同、久保氏と共著)
- ■ Webでは「高校野球ドットコム」、書籍では「野球小僧」(白夜書房)「ホームラン」(廣済堂出版)「陸上競技マガジン」(ベースボールマガジン)「月刊トレーニングジャーナル」(ブックハウスHD)などに記事を寄稿している。
- ■ 野球歴は中学から。高校時代は背番号11はもらうも、練習試合に代打で1打席、守備で1イニングの試合経験しかない。現在はマスターズ高校野球のチームに所属し、おじさんたちと甲子園の夢を追いかけている
- ■ フルマラソンの自己ベスト記録は3時間18分49秒(2010年のいぶすき菜の花マラソンにて)。野球とマラソンと鹿児島をこよなく愛する「走るスポーツ記者」

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