スタートも遅く、昨夏の経験者も少ない龍谷大平安はなぜ近畿の頂点に立てたのか?【前編】
昨夏に甲子園通算100勝の偉業を成し遂げた龍谷大平安。秋は近畿大会を制して、2季連続の甲子園出場を決めた。元気と負けん気が武器のチームはまだまだ成長途上。5年ぶりの日本一を目指すチームの現在地に迫った。
今までにない元気と負けん気で粘り強く勝ち続けた
アップをする龍谷大平安の選手たち
夏の甲子園では16強に進出したが、2年生以下でメンバー入りしていたのはレギュラーの水谷祥平(2年)と北村涼(2年)に加え、控えの野澤秀伍(2年)、奥村真大(1年)、川谷優真(2年)の5名しかいない。
「バッテリーが変わるということもあって僕は時間かかるなと。去年の時点で次の夏を目指さないといけないと思ってスタートしたんです」と新チーム結成当初を振り返る原田英彦監督。公式戦経験が乏しい選手が多く、天候不良で練習試合もあまり消化できずに秋の大会を迎えた。
秋の京都大会は投手陣が苦しみ、苦戦を強いられる。それでも何とか接戦をものにして3位で近畿大会の出場を決めた。近畿大会が行われる[stadium]ほっともっとフィールド神戸[/stadium]はプロ野球でも使用される球場ということもあり、原田監督は「良い経験にしろや」と選手に呼びかけたという。
近畿大会の1回戦は京都大会で台頭して背番号1を掴んだ豊田祐輔(2年)のカーブがハマり、天理を9回途中まで3失点に抑えて4対3で勝利。続く準々決勝も市立和歌山に5対4でサヨナラ勝ち(試合レポート)してセンバツ出場をほぼ確実にする。
粘り強く勝ち進んできたこのチームは大会期間中に急成長を遂げていた。夏と違って秋は週末にしか試合が行われない。そのため、1週間ごとに次の試合に向けての対策を練ることができたのだ。
「1週間で目的を持って練習をこなしているうちに投げ込みもできましたし、そのピッチャーに対して打ち込みもできました。グーンと公式戦の中で伸びていったんですよね」(原田監督)
チームが成長した要因を原田監督は「元気と負けん気、これが今までになくあった」と分析する。主将の水谷を筆頭に北村、奥村など元気な選手が多いのがこの代の特徴。持ち前の負けん気の強さで苦しい試合も粘り強く勝ち切った。
選手主体で挑んだ全国の舞台で見えた日本一への課題
人を担いでトレーニング中!
勝つことに自信をつけた選手たちは準決勝でも7回コールドで履正社を下し、決勝に進む。決勝の明石商戦では京都大会の不振で背番号1をはく奪された野澤が12回を投げ抜き、自責点0と奮起。12回表に1点を失ったが、その裏に二死満塁から3番の多田龍平(2年)が逆転サヨナラ打を放ち、見事に近畿大会を制した。
「元気と負けん気」を最大限に発揮し、驚異的な勝負強さで近畿王者となった龍谷大平安。神宮大会では「ここまでお前らよう頑張った。俺もベンチでよう声出したよな。せっかく東京来たからここは自分たちでやってみろ」と原田監督は選手たちの自主性に任せることにした。
しかし、1回戦の札幌大谷戦では初回に守備のミスが連発して5失点。後半に追い上げたが、5対6で惜しくも敗れた。
「近畿の学校には悪かったんですけどね」と原田監督は言うが、この敗戦でチームの課題は明確になった。それは「瞬時の判断ができない、稀に見る守備の悪さ」の2点だ。
秋の公式戦では10試合で14失策。特に一塁手の三尾健太郎(2年)と奥村で10失策と両サイドの守備に課題を残した。
そういったことを踏まえて冬は以下の3つを課題として取り組んできた。
・守備は確実に取って確実に投げる
・どんなピッチャーが来ても負けないスイングを身につける
・スピードをつける
正月明けに原田監督は選手たちに「日本一に挑戦」という目標と「頓知頓才」という言葉を与えた。この言葉は「状況に合わせて適切な判断ができる知恵や才能のこと」という意味である。これを機に寮やベンチの整理整頓など彼らが苦手としていたことを徹底させた。こうした取り組みが守備力の向上にも繋がると原田監督は考えている。
前編はここまで。後編では選抜に向けてチームの状態を原田監督自身に語ってもらい、春先はどのような目標を持って戦おうとしているのか話を伺いました。後編もお楽しみに!
(文・馬場 遼)