「長所」を上げられたことが覚醒の口火 秋の東京王者・国士舘(東京)【前編】
91年春と93年春のセンバツで、チームを全国4強へ導いた実績を持つ永田昌弘監督が16年秋に復帰。以降の公式戦では6大会中5大会でベスト4以上の成績を残すなど、安定して上位に進出していた国士舘(東京)。7大会目となった昨秋の東京大会では遂に優勝し、今春のセンバツ出場も有力視されているが、そんな士気の上がる国士舘の練習グラウンドにおじゃましてきた。
「史上最低」と呼ばれ始まった新チーム
今季のチームを「史上最低」と呼んだ永田監督(国士舘)
「史上最低」。昨秋、永田監督は今季のチームをそう呼んだ。
確かに、昨夏は石井 峻太、草薙 柊太、井田 尚吾と能力の高い3人のサウスポーを擁し、甲子園の有力候補として名前を挙げられていたのに比べると、今年の投手陣は公式戦に登板した経験がなく、野手を見てもレギュラーだったのは黒川 麟太朗(2年)のみ。
「本当にゼロからのスタートで危機感があった」と永田監督。しかも、練習で集中力を欠いてしまうところがあり、松室 直樹主将(2年)も「史上最低と言われても、『その通り』としか言えないチームだった」と認めるほど。時には「練習中に監督があきれ返ってしまい、1年生を連れてグラウンドを離れてしまうこともあった」という。
永田監督も「元々、1年生だけを集めて守備と走塁の基本を教えたかったという理由もあるのですが、やはり上級生が怠けてしまうと下級生もマネしてしまう。だから、『こういう状況は良くないんだ』ということを選手の意識に植え付けたかったんです」と振り返る。
ただ、もちろん史上最低と何度も繰り返して叱咤することで「選手たちが発奮してくれれば」という思いもあったという。
そんな指揮官の気持ちが伝わりはじめたのは8月の終わり頃。永田監督は選手を前に「バッティングは昨年よりも今年の方が良い。実力がないわけではなくて、やる気がないのがダメなんだ」と諭すと、「1学年上のチームは体の大きさも技術面も自分たちよりも上。それでも昨夏の西東京大会では準決勝で負けてしまっていたので、『甲子園は無理』と諦めていたところがあった。でも、監督に初めて長所を挙げてもらい、まだ見捨てられてはいないと感じた」と話す松室主将をはじめ、覚醒したチームはモチベーションを上げていった。
苦戦しながらも成長した投手陣
体幹トレーニングを行う国士舘の選手たち
とはいえ、秋季大会を迎えた時点では「とてもじゃないですが、優勝なんて狙えなかった」と永田監督。
ブロック予選も手こずり、代表決定戦の工学院大付戦では6回に一時逆転され、松室主将は「明日から、もう冬のトレーニングだ」と早々に敗退してしまうことを覚悟したという。しかし、この試合を森中 翼(2年)の一打で再逆転し、5対2でモノにすると、4番の黒澤 孟朗(1年)を中心に打線が活性化。
「黒澤は思い切りよくスイングできるのが長所で、逆方向にも飛距離が出る選手。この大会では黒川、渡辺 伸太郎(2年)の1、2番が出塁して、4番の黒澤が返すというパターンができて、ある程度、得点を取ることができました」と、永田監督。
「ピッチャーも1試合経験するごとに成長していった」というように、東京大会の2回戦・昭和一学園戦では先発の白須 仁久(2年)が5回1失点の好投。6回からは山崎 晟弥(2年)につないで投手戦を競り勝った。
「白須は大会中にカットボールが良くなったのが大きかった。ファウルを打たせてカウントを稼いだり、内野ゴロを打たせて打ち取ったり、場面ごとに上手く使いこなしていました。山崎は腕を下げてスリークォーターにしたことで球威が増し、シュートも効果的に織り交ぜたピッチングで8月の練習試合では聖望学園(埼玉)を完封しました。
先発、中継ぎ、抑えのどこでも行けて、プレッシャーを感じないタイプなので昨秋はクローザーを任せたのですが、昭和一学園戦ではそんな各投手の性格を踏まえたうえでしっかりと継投できたと思います。
投手陣にはもう一人、石橋(大心、2年)という左投手がいるのですが、白須が5~6回まで投げて、石橋につなぎ、最後は山崎という形ができましたし、私としてもこれまでは思い切った継投がなかなかできていなかったなかで、昨秋の大会では我慢するところは我慢し、決断するべきところはきちんと決断できたと感じています」(後編に続く)
(文・大平明)