目次

[1]第2の故郷のために
[2]「出口」を作る
[3]「先生」とは?

  高校野球は野球を通じた人間教育が目的といわれる。何をかいわんやの当たり前のことなのに、長くこういう仕事をしているとその前提を忘れそうになるときがある。勝利至上主義、ヒーローをもてはやす風潮、加熱する甲子園報道…「教育」が目的でありながら、教育的でないことが平然とまかり通っている現実から目を背けていないか。

 「勝つことより大事なことがあると思いますか?」
 枕崎・小薗健一監督に逆質問された。
 「あると思います」。そう答えておきながら、自分が日々書く高校野球の記事は、その目的にかなったものであるのか、襟を正したい気分になった。

 少子化、部員不足、定員割れが慢性化した学校、地域の衰退…一野球部の問題にとどまらず、今日本の地方都市が共通して抱える問題に直面している中で、小薗監督は「野球を通じて人間を磨く」という大原則をぶれずに貫き、日々高校球児と向き合う。

第2の故郷のために


 小薗監督はかつて15年間高校教員を務めたのち、2004年に退職し、弁当や野球用品などのスポーツ用品を扱う「ぶるぺん」という会社を枕崎市で起業した。枕崎高校では1994年から02年まで教員、野球部監督として赴任していた。

 「カツオの町」として知られる枕崎は小薗監督にとって「第2の故郷」と呼べる町である。曽於市(そおし)末吉町の生まれだが、国鉄職員だった父親の転勤で幼年期は宮崎県内を転々とすることが多かった小薗監督にとって、「故郷」と呼べる場所は小学2年から3年まで過ごした母親の実家がある宮崎県の串間市だった。

 港町で、夏の盆踊りでは人の輪が幾重にもできるほどの活気があった。大人になって串間を訪れた際、久々にみた盆踊りは人出が少なくなり、明らかに活気を失っていた。教員として枕崎に赴任した頃、「町や学校の元気を何とかして取り戻したい」という町の人たちの声を聞いた。

 カツオを扱う若者がどんどん少なくなり、85年に人口3万人を切ってから減少傾向に歯止めがかからなくなっていた。枕崎の人たちが感じている危機感は自分がかつて串間で感じた憤りに通じるものがあると感じた小薗監督は、教員時代の8年間「野球部が頑張ることが学校や町が蘇ることにつながると自分を奮い立たせていた」。


枕崎野球部

 OBや町の人たちの協力で、スコアボードや照明施設も整ったグラウンドが整備され、室内練習場や寮もできた。96年秋に県大会優勝、98年秋に準優勝、00年NHK旗で優勝するなど結果を残した。

 90年代から00年代にかけて、久保克之監督率いる鹿児島実、枦山智博監督率いる樟南の2強がしのぎを削って、鹿児島が全国区の強豪になっていった頃、県内では「打倒2強」を掲げて公立、私学を問わず鹿児島市外の地方校が台頭していた時期でもあった。

 今村哲朗監督のれいめい、中迫俊明監督の川内、飯牟禮俊昭監督の鹿児島城西と並び、小薗監督率いる枕崎も「我が町から甲子園」を目指す新興勢力の一角を担っていた。