目次

[1]「選手2名」。そこからの我慢と変革
[2]バラエティーに富む3年生6人、徳島市立の門を叩く
[3]2年生投手の「影なる努力」加え、躍進のレールへ

 2014年春はわずか自前選手2名。2014年秋、2015年春も選手8名のため連合チームで出場した徳島市立。しかし、そんな苦難からわずか半年後の昨秋県大会で彼らは6年ぶりの公式戦1勝。この春は2勝・県大会では18年ぶりにベスト8進出を果たした。
では、彼らはなぜそのような大躍進を遂げることができたのか?夏は7年ぶり選手権徳島大会1勝の先を狙う徳島市立が積み上げた「キセキ」を追った。

「選手2名」。そこからの我慢と変革

個々のイメージを持って素振りに取り組む徳島市立高等学校の選手たち

 「全国優勝」。

 徳島市立野球部グラウンドの前には、このような石碑が立っている。ただ、この石碑は野球部のものではない。1991年に全日本ユース、1992年にインターハイを制し、元日本代表のMF藤本 主税(現J2熊本U-15チーム監督)はじめ、Jリーガーも多数輩出している全国レベルの強豪・男子サッカー部が打ち立てた栄光である。

 公式試合も行える人工芝グラウンドを持つサッカー部にこそ及ばないが、1666・1967年に初参加後、1973年に再創部された野球部も徳島県内で中堅校だった時期があった。
横浜隼人(神奈川)を2009年夏に甲子園に導き、2014年にはオリックス・バファローズのドラフト2位の宗 佑磨も育て上げた水谷 哲也監督が3年生だった1979年夏には初のベスト8進出。以後、夏の徳島大会では1982・1997年にベスト8。秋も1979年秋にベスト4へ進出している。

 しかしその後、選手数は徐々に減少。そして部存続の危機が2014年に訪れる。4月には3年生3人のところに1年生が4人入ってきて、夏は2人他の部活から選手を借りて出場しました。ただ、3年生が引退し、夏を終えると1年生も2人が退部。すなわち1年生2名のみとなってしまったのだ。

「そこで聞きました。『部活は続けるのか?』でも2人は『やる』と言ったので春まで待って、新入部員の入部を待つことにしたんです」
今年就任10年目を迎える岩脇 達克監督が当時を振り返る。この春に卒業した田中 健太郎(投手)、園井 誠(内野手)。この2人による部活継続表明なくでは徳島市立野球部の存続はありえなかった。

 そして「残ってくれただけでも素晴らしい」と真から感動した指揮官自身も以後、大きく指導法を変える。当時、講師として赴任していた藤井 肯人コーチ(昨年度は城北監督→現:小松島西勤務)と共に指導者と選手との垣根を低くし、練習内容も情報収集力のある選手たちに多くの部分を任せることにした。
「野球が好きなんだから、そこを折れないようにする。『けんちゃん、まことちゃん、今日も練習するか!』こんな感じになりました」(岩脇監督)。今も続く風習である。

 そのような変革の数々と、一日300回の素振りを自らに課した選手2名の我慢は、2015年4月、新たな化学変化をもたらす。現3年生のバラエティーに富む6名が入学したのである。

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