「ドラ1」と戦った176センチ右腕、大越基の波乱万丈物語
早鞆で監督を務める大越基
あれは初めてドラフト会議の会場取材に行った時だった。広い広い新高輪プリンスホテルの通路で、横幅いっぱいに広がった50人くらいの塊が向こうからやってくる。塊の中央にいる人を報道陣が囲んでいる。巨人担当記者が、長嶋茂雄監督のぶらさがり取材をしていた。生で憧れの長嶋さんが見られると思ったが、人の多さに近づけず、目の前をすれ違う時に、長嶋さんの頭のてっぺんが少し見えただけだった。
その数時間後、長嶋監督は松井秀喜を引き当てて笑顔を見せた。1992年のドラフト当日。ゴジラ松井を1位指名した中日、ダイエー(現ソフトバンク)、阪神を含めた4球団競合の末の歴史的な瞬間だった。ダイエー担当記者だった私は、内心ホッとしたような、がっかりしたような複雑な心境だったが、すぐさま、心がざわつきへと変化した。
「福岡ダイエー、選択希望選手。大越基」
アナウンスが会場に響く。ダイエーは早大を中退し、米国で野球留学していた右腕を、松井の外れ1位として指名した。彼の人生は浮き沈みが激しかった。
仙台育英のエースとして、闘志あふれるマウンド姿と176センチと大柄ではないが筋肉質なフィジカルを武器に、3年春夏と連続甲子園ののマウンドに上った。センバツでは元木大介がいた上宮に敗れベスト8に終わったが、夏は準優勝した。今では「ご法度」となる4連投となった決勝で投手戦の末に、延長で敗れるという「球児ファン」としては涙もののストーリーの主人公を演じた。
プロの誘いもあったが、早大に進学。しかし、いわゆる「燃え尽き症候群」なのか、練習しない日々が多かった。それでもマウンドに上がると内角攻めでバットが折るなど、結果的には抑えられた。野球が半分、楽しくなくなった。1年春のリーグ戦でピンチをわずか1球で切り抜け、チームに優勝をもたらすと、野球部から身を引いた。
普通の大学生となった甲子園準V右腕は、野球以外に打ち込めるものがないことに気づくが、早大野球部「中退」の身では「世間体」が許してくれず、アメリカにわたる決意をする。カリフォルニアリーグでプレーするとかつての速球がよみがえり、ダイエーのスカウトの目に留まり、よもやの「ドラフト1位」が回ってきたというわけだ。指名がかかることは知っていたが、1位とは聞いてなかった。
入団後は腰痛などの度重なる故障に見舞われ、投手をあきらめ野手に転向。足があることに加え、泥臭い打撃が実を結び、99年ダイエー初優勝、03年日本一に脇役として貢献し戦力外へ。テストも受けたが、引退した。
指導者の道を目指し、東亜大(山口県下関市)を卒業すると、早鞆の教員になり、監督に就任した。ここでも苦労の連続だったが12年のセンバツには初めて指導者として甲子園ベンチ入りを果たし「里帰り」を果たしている。天国も知り、地獄も味わった。それでも、マウンド度胸を物語る気迫あふれる投球とは想像もつかない持前の明るさで乗り越えてきた。
あのドラフトの翌日。大越が小中学を過ごした青森県八戸市に朝いちばんの飛行機で羽田から八戸へ飛んだ。連載取材のためだった。当時の恩師たちの話にふれ、明るい生徒だったという証言が多かった。地元の誇りだとも言っていた。数日間、滞在した後、翌日福岡での取材に間に合わせるために、八戸駅から上野発の夜行列車に乗って青森駅へ移動し、空路青森から福岡へ戻った。貴重な体験だった。大越に感謝しないといけない。
ダイエー担当記者時代に触れ合ったが、投手らしくナイーブな性格だったのを覚えている。繊細だからこそ、傷つくこともあっただろう。「甲子園準V投手」「早大胴上げ投手」「ドラフト1位」。そんな肩書と戦い続けた野球人生だったのかもしれない。現在は高校生を指導する立場にいる。甲子園だけがすべてではない。自分の背中も教科書になっている。
(記事:浦田 由紀夫)