震災の現状
第8回 震災の現状2011年05月19日
仙台一高のグラウンド
何を書けばいいのか、わからない。それが正直な気持ちだ。
始めは、各校の現状を取材し、伝えようということだった。しかし、気が進まなかった。大会を通じて各校を取材しているうちに、どこがどうこうという問題ではないと確信した。どこも大変な思いをして、この2ヶ月を過ごしてきた。実際に被害の大小はあれど、心の傷に大きさは関係ない。今回は、私が見て、聞いてきた現状をありのままに書こうと思う。
3月11日、午後2時46分。東日本大震災が発生した。日本の観測史上最大となるマグニチュード9.0の地震。そして、地震による津波は青森から千葉の太平洋沿岸を襲った。加えて、福島第一原子力発電所の事故。日本人が過去に経験したことのない大災害となった。
時は3月、センバツ直前だったこともあり、高校球界も揺れた。センバツ開催には賛否両論があったが、開催が決まった。東北地方からセンバツに出場するチームは東北、光星学院、そして、21世紀枠で大館鳳鳴。東北は学校のグラウンドで練習中だった。光星学院は沖縄でのキャンプを終え、青森に帰る途中。大館鳳鳴は出発を翌日に控えていた。
光星学院は沖縄から大阪へ直行。大館鳳鳴は13日に大阪入りした。
東北は寮のライフラインが寸断され、数日間、避難所で生活した。炊き出しの手伝いや給水活動など、地元の力になった。その後、センバツへの出場を表明。出発する際は、その日の午前中まで給水活動を手伝っていた泉キャンパスのある館地区の館中で、地元住民から盛大に見送られた。
3月23日、センバツが開幕。2日目の第1試合に登場した大館鳳鳴は天理に0対8で敗れた。光星学院は3日目第3試合で水城と対戦。青森と茨城。ともに被災地となった地域同士の対戦は光星学院が10対0で勝利した。2回戦・智辯和歌山戦は2対3で惜敗。悔しさを残し、甲子園を去った。大きな注目を浴びた東北は最終日に登場。大垣日大に7対0で敗れたが、惜しみない拍手が送られた。
4月9日。東北地方理事長会議が開かれた。青森、秋田、山形は地区予選、県大会の開催を決めたが、福島は中止を決定。宮城は10日の理事会で中止を決めた。岩手は19日に理事会が開かれ、延期や中止の声もあったが、地区予選、県大会の開催を決めた。岩手沿岸部の地区では日程や場所を大幅に変更して予選が行われることも決まった。
沿岸南地区予選では麦茶が振舞われた
5月4日、青森県むつ市の川内球場。岩手県大船渡市の大船渡と北海道の鵡川が練習試合を行った。大船渡市は津波によって大きな被害を受けた街のひとつ。その街にある大船渡は1984年春のセンバツに初出場している。
この時、現在、鵡川を率いている佐藤茂富監督が指揮していた北海道・砂川北もセンバツ初出場。当時の大船渡の佐藤隆衛監督と佐藤茂富監督が同い年だったことから縁ができた。現在の大船渡の吉田亨監督は当時、大船渡の主将。卒業後、筑波大に進学し、教員として8年前、大船渡に戻ってきた。その前の年、吉田監督は前任校で「来年から鵡川に合宿しなさい」と佐藤監督から声をかけられていた。翌年、佐藤監督との縁が始まった母校に赴任。以来、毎年夏、鵡川で合宿している。
毎年、交流してきた大船渡と鵡川。震災後、鵡川から野球道具などの支援物資が3回にわけて送られたてきた。この日の練習試合の前には鵡川の父母会一同から義援金が送られた。鵡川の父母会は「今後も続けていく」と長期の支援を約束した。
この練習試合は元々、「下北から甲子園」を掲げる大湊と鵡川の間で行われる予定だった。そこに、弘前学院聖愛が加わり、震災の影響もあったが、大船渡が「行ける」と結論を出したことで実現した。「鵡川ファミリー集結です」とは弘前学院聖愛の原田一範監督。4日は4校が互いに試合経験を積んだ。昼食も4校が一緒にとり、交流を深めた。
試合後、鵡川の主将・堀籠健太(3年)は「大船渡はどういう感じで来るんだろう?と思っていたのですが、アップから元気があって、行動もキビキビしていて。気持ちは今も切り替えられていないと思うけど、グラウンドに入ったら元気を出してやっていて、すごいなと思いました」と話した。
同じ頃、大槌は駒大苫小牧で3日間、合同練習をした。1月に初めて合同練習をしていたことがきっかけで、今回の遠征が実現。旅費などは全て駒大苫小牧側が負担したという。
5月3日には二戸、盛岡、北奥地区で予選が始まっていた。多くの学校が被害を受けた沿岸南と沿岸北は5月2週目の週末に予選が行われた。大船渡市、陸前高田市、釜石市、大槌町の沿岸南は12日から3日間。宮古市、岩泉町、山田町の沿岸北は14、15日に行われた。どちらも7校から3校の代表を決める。
3年ぶりの県大会出場を決めた釜石
校舎の3階まで津波が襲ってきた学校もある。グラウンドは無事だったため、仮説住宅が建てられたところもある。グラウンドが津波に飲まれ、バックネット、遠征用のバスが流されたチームもある。そこは部室も浸水。練習中だったため、身体ひとつで部員は校舎に逃げた。後日、部室から泥を掻き出すと、荷物や道具が出てきた。予選で使っていたセカバンは、とてもきれいなものだった。聞くと、何度も、何度も洗ったのだという。
レギュラー9人のうち、自宅が残ったのは3人だけのところもある。自宅が津波に襲われたが、瓦礫の中から見つけたバットで素振りを繰り返し、ホームランを打った選手もいた。共に冬の苦しい練習を乗り越えてきた仲間が県内外に転校してしまったチームもある。
こうして学校やグラウンドが大きな被害を受けたところもあるし、学校は無事でも部員の自宅が被災したり、家族・親族を亡くした部員がいたりする。
震災後、避難所運営を手伝ったり、自宅の片付けをしたりと1人ひとりが地域の力になった。それは、野球部員に限らず、多くの中高生がそうだった。
震災から2ヶ月が経ち、岩手では大会が開かれ、宮城や福島の高校も練習試合を行うようになった。好きな野球ができるということが、こんなにも有難いことだったのかと知った人もいるだろう。目標があるということの素晴らしさを実感している人も多いはずだ。被災した学校が遠征に行くと、昼食などをお世話してもらったとも聞いている。高校生がよく使う「感謝」ということを、本当に体感している人もいるだろう。
ただ、時間が経てば経つほど、最初の頃の気持ちが薄れてしまう。ある監督は言う。「恵まれすぎて、何かないとすぐに手に入る。段々と感謝の気持ちがなくなってきている」。野球が出来て嬉しいとか、野球ってこんなに楽しかったんだとか、仲間と一緒にできることに幸せを感じても、1日、2日、3日と続けば、そこはまだ高校生。「慣れ」てきて、気持ちはあれど、行動がなくなったようだ。
宮古高に集まった支援物資
地区予選でも補助員のチームが整備で「自分たちのために大会が開かれていることを忘れているんじゃないか」と怒られたという。大会は多くの人の手によって開かれる。被災地だからとかいうことなく、どこでもそうだ。役員の先生方は朝から晩まで球場で大会運営に尽力なさっている。
被災地と呼ばれる地域以外では、野球道具を送ったり、招待試合をしたりと支援している学校がある一方で、感心が薄い学校もあると聞く。いろいろな報道があり、報道の仕方がある。いろんな報道機関があるため、多くの情報があり、目にするもの、耳にするものも限られる。
けれども、今尚、避難所で生活している人や故郷を離れて生活している人がいる。球児の中にも、避難所から学校に通っている人もいるし、転校を余儀なくされた人もいる。大切な思い出を流された人もいる。震災で一瞬にして日常を奪われた人がいることを忘れてはいけない。
センバツは日本中に感動を与えた創志学園・野上主将の選手宣誓で始まり、優勝インタビューで東海大相模・佐藤主将が口にした被災地への感謝で締めくくられた。震災から2週間足らずで行われた今年のセンバツが「忘れもの」を思い出させてくれる原点なような気がしてならない。
地方によって、春の大会中のところもあれば、夏に向かっているところもあるだろう。震災から70日目のきょう、岩手では4会場で県大会の1回戦が始まる。
(文=高橋 昌江)