あの電話から、もう1年が経つ。
2018年12月29日正午過ぎ、長野県立上田高校野球部の漆原伸也部長のご家族から1本の電話がかかってきた。
 電話の内容は、漆原さんが練習中に倒れて、意識が戻らず、病院に救急搬送されたというものだった。

 神社での階段トレーニングの最中だった。部員と一緒になって走っていたが、突然、意識を失った。搬送された病院の待合室には、野球部員や、漆原さんの高校時代の仲間たちが、大勢駆けつけていた。
だが、祈りは届かなかった。
 36歳の若さで、漆原さんは、この世を去った。

野球とともに歩んだ人生


 情熱的な人だった。
 野球への愛も、教え子たちへの愛も大きすぎて、野球の指導者は漆原さんの天職だと思った。

 いつ、どこにいても、漆原さんの野球への情熱は揺るがなかった。
 長野県立野沢北高校野球部で高校3年間を過ごした漆原さんは、最後の夏にエースナンバーをつけて活躍。入学当初から、「俺は甲子園に行きたい」と言い続けて、当時は、甲子園は遠い場所だと思っていた同級生たちの意識をも変え、最後の夏の大会では、強豪私学の対抗馬として取り上げられるほどのチームへと成長した。3回戦で敗れたものの、漆原さんの夢はまだ終わっていなかった。

 高校卒業後は、秋田大学に進学すると、硬式野球部に所属しながら、高校の英語教諭の資格を取得。大学を出て、地元・長野の高校教員になると、野球部のコーチとして指導に携わりながら、自身も硬式クラブチームの選手としてプレーを続けた。

 2007年3月、漆原さんが24歳の時、仕事を辞めて、青年海外協力隊員になった。赴任先はスリランカ。ここで2年半、大好きな野球を広めるために、スリランカの選手育成に励んだ。今でこそ、スリランカは国際大会でも結果を残すようになってきたが、当時はまだそこまでのレベルではなく、国内に野球専用のグラウンドさえなかった。

 そんな環境の中でも、漆原さんらしい情熱を注いだ指導で2009年、ついにアジアンカップで銅メダルを獲得。スリランカの野球史上初のメダルとなった。

何かをしたいと思っているだけでは何も状況は変わらない



教え子たちと喜びを分かち合う漆原伸也さん

 昨年、漆原さんが亡くなったことを知ったスリランカの教え子たちは、現地で、追悼セレモニーを行った。ナショナルチームのユニフォームを着て笑顔で写る漆原さんの写真に、真っ白な花飾りが添えられ、選手たちは、“シンヤさん”との別れを惜しんだ。

 スリランカでの指導は、漆原さんにとって大きな財産となった。
日本に帰国後、再び教職の道に戻った漆原さんは、2012年秋から長野県立軽井沢高校の野球部監督に就任した。

 軽井沢高校の野球部は、部員数が少なく、公式戦も他校との合同チームで出場。高校から野球を始めた選手もいるなど、どこか、スリランカの選手たちと似た部分があった。
 部員が少ないことをマイナスに捉えず、今ある環境で、自分が指導者としてできることを常に考え、漆原さんは、部員たちと、そして野球そのものと向き合っていた。

 一時期、選手数がゼロになり、部員はマネージャー1人だけになった時も、漆原さんの情熱は変わらなかった。

 マネージャーには、「何かをしたいと思っているだけでは何も状況は変わらないよ。自分は何をしたいのか、普段から言葉として発していると、自然と状況は変わってくるぞ」と伝え、新入部員が入ってきてくれるように、一緒にグラウンド整備をしたり、冬になれば校庭だけでなく、校舎の周りも雪かきをするなど、野球部としての活動を続けた。

 漆原さんは、この翌年3月に上田高校へ転任し、軽井沢高校を離れることとなったが、この年の春、野球部に新入部員が8名入部。夏の大会では助っ人部員も1人加わり、軽井沢高校は、念願の単独チームとして参加することができたのだった。

 

 漆原さん自身は、赴任先の上田高校でも野球部顧問となり、過去に甲子園出場経験のある実力校でこれまでと変わらず、野球指導に熱い情熱を注いできた。

 あの日も、選手たちと一緒に、階段トレーニングに励んでいた。漆原さんにとっても、選手たちにとっても、それがいつも通りの光景で、いつも通りに午前の練習が終わるはずだった。
 だが、漆原さんが再びグラウンドに戻ってくることはなかった。

 漆原さんが生前、青年海外協力隊員として、スリランカに赴任中に書いていた文章がある。初めて、スリランカに降り立った日、漆原さんはこんな言葉を記していた。(一部抜粋)