目次

[1]寝耳に水だった監督就任
[2]広商、崇徳に憧れた少年時代
[3]「ずるをした」センバツでの初戦<

広商、崇徳に憧れた少年時代



中井 哲之監督(広陵)=2017年の取材より

 広島市の西隣の廿日市市(88年までは廿日市町)で育った。ミスター赤ヘル・山本浩二氏は、廿日市高校のOB。野球が盛んな土地といっていい。中井少年も当然のように野球を始めた。小学校4年のとき、県大会決勝で完全試合を食らい、敗退。同時に監督も辞任すると、父が広陵OBの監督を探してきた。廿日市で小さな電気店を営んでいる父は、根っから野球好きで曲がったことが嫌い。「こんな負け方のままチームがなくなったら、子どもたちは一生傷ついたままやき」と、一肌脱いだわけだ。

 こんな話を聞いた。中学時代、いつも同級生をいたぶるいじめっ子がいた。見るに見かねた中井が助太刀に入り、取っ組み合いのケンカになった。相手の親が学校にねじ込んだのか、何人もの先生が中井家に飛んでくる騒ぎに。「対応した父は、いちおう殊勝な顔で先生の話に相づちを打つんですが、先生方が引きあげると『で、オマエ、勝ったんか?』。私がうなずくと、『そうか、ようやった!』です(笑)」。男気の人、なのである。

 その後進んだ廿日市中学で中井は、エースで3番を打つことが多かった。

「足も肩も、打力も自信があった。なにしろ、体育の成績はいつも10。学年で、男女各1人しかいない満点だから、運動能力はあったと思います」

 進路を考えるようになると、頭に浮かんだのが広島商である。73年、センバツでは怪物・江川 卓を準決勝で倒して準優勝し、夏には全国制覇。小学5年生だった中井は、優勝パレードを実際に見たのか、ニュースで見たのか定かじゃないが、とにかく「すげえなあ」。プロ野球では、地元のカープよりもジャイアンツびいきだったほどだから、強い者へのあこがれがある。以来、「広商」の一員として甲子園で戦うのが夢になり、「広商」の運動会や文化祭にまで遊びに行っていたという。

 中学2年になる76年には、やはり地元・広島の崇徳がセンバツを制した。黒田 真二(のちヤクルト)をエースに、山崎 隆造(のち広島)らの個性派がいて、「広商」とはまた違ったスケールの大きさを感じさせるチームだった。中井少年は、進路を迷いに迷う。伝統を誇り、戦術的で緻密な「広商」か。圧倒的な力で日本一になった崇徳か。市街地にある広島工も、実力は侮れない……。

 そのころの広陵は、広島市街地に近い南区の宇品から、73年に現在の安佐南区沼田町に校舎を移転したばかりだった。71年に広島市に編入した郊外で、いまでこそアストラムラインで市の中心部と直結しているが、移転当時はバスが1日数本ほど。通うのに不便だと学校の人気も落ち、生徒数は600人前後まで減った。野球部も当然、足並みをそろえるように低迷期に入る。なにしろ、生徒が入学してくれないのだ。中井少年にとって、広陵という進路は選択肢はない。

 そんなときである。当時の広陵の校長が、中井の評判を聞きつけ、家に訪ねてきた。そして「伝統ある野球部を、なんとか立て直したい。そのためには、息子さんの力が必要なんです。ぜひとも、広陵に……」と、熱っぽく語る。

「私は広商か崇徳でやりたかったんですけど、オヤジの性格なら、絶対にこの申し出を意気に感じるんですよ。案の定、『校長先生自らここまできて、お前みたいなガキに礼を尽くしてくださるんじゃ。いますでに強い学校に進んで甲子園に行くのと、助けてほしいといっている学校で甲子園を目指すのと、どっちが男のやることか分かるよの?』。この一言で、私の野球人生が決まったといってもいいですね」

 かくして中井は、「広商」でも崇徳でもなく、広陵に進学することになる。78年のこと。昭和でいえば53年にあたる。下級生の間は、その時代特有の理不尽な上下関係に耐えるしかない。なんでも、70人ほど入部した同級生は、最終的には13人まで減ったというから、練習はもちろん、しごきやいじめの厳しさが想像できる。79年秋、中井たちが2年の新チーム。「こんな目に遭っても耐えるのは、甲子園に行くため。行けなかったら馬鹿馬鹿しいぞ」というエネルギーで、広陵は秋季中国大会を制覇し、翌年のセンバツ出場を確定的にした。