Column

前田三夫(帝京前監督)②「夏の全国制覇を勝ち取るまでの修行期間と大胆改革」

2021.12.28

 この夏、2年ぶりに開催された夏の甲子園。史上もっとも遅い8月29日に決勝戦が行われたが、その裏で帝京を50年間率いた前田三夫監督が勇退を部員に告げた。

 高校野球に半世紀を捧げた男はいかにして帝京を全国屈指の強豪に鍛え上げ、「名将」となったのか。前回は「帝京・前田三夫監督」誕生までを語っていただいたが、今回は監督就任から初の甲子園出場、そして全国制覇までの道のりを振り返ってもらった。

前田三夫(帝京前監督)②「夏の全国制覇を勝ち取るまでの修行期間と大胆改革」 | 高校野球ドットコム名監督列伝・前田三夫(帝京)
■第1回
「知られざる監督就任エピソード」
■第2回
「夏の全国制覇を勝ち取るまでの修行期間と大胆改革」
■第3回
「自主性とのジレンマ、胸が踊った2006年夏」

習志野、東海大相模の名将から学んだ甲子園に行くチーム作り

前田三夫(帝京前監督)②「夏の全国制覇を勝ち取るまでの修行期間と大胆改革」 | 高校野球ドットコム
前田 三夫監督(帝京)*2019年秋季都大会 国士舘戦より

 「なにしろ、部員が4人しかいないでしょう。フリー打撃のときには僕がキャッチャーをやったとしても、投手と打者のほかには守備が2人しかいないんですよ」

 前田 三夫さんは、帝京高校の監督になった当時のことをそう、振り返る。そのころのグラウンドは、強豪のサッカー部と90メートル四方ほどの校庭を二分するつつましいものだったが、4人での練習ならば、十分以上に広かったはずだ。

 正確にいうと1972年の春、まだ新入生を迎える前。みんなで甲子園に行こう、とぶち上げながら、あまりの練習の厳しさに15人前後いた部員は1人、2人と、グラウンドに出てこなくなる。なにしろ当時の選手たちに聞くと、「(学校わきを流れる)石神井川に落っこちてくれないか」「交通事故に遭ってくれないか」などという物騒な冗談がかわされていたほどの苛酷な練習だったのだ。

 とはいえ、前田さんは必死だった。のちには教員免許を取得するが、当時は事務職員としての採用である。監督として結果を残さないと、いつ職を失うかわからない。

「だから、なんとか選手をその気にさせようとバットを買って、それぞれの好みに削ってもらったりね。当時はまだ木製の時代で、自分用のバットを手にすると選手が張り切るのは、経験上わかっていたんです。だけど、まだ部の予算がないから自腹(笑)。試合用のユニフォームの不足分も、ニューボールも自腹で調達したから、1、2年目のボーナスなんか、右から左だったよね」 

 自身大学では1試合も出場がなく、下積みの気持ちもよくわかるから、目配りは細やか。最初は反発していた選手たちも、そういう熱意と人間性に徐々に感化されていく。一時は部を去っていた新2年生のうちやがて二人が戻り、新年度には新入生が入ってきて、なんとか通常の練習ができるようになった。夏の大会前には、「また逃げ出されたらたまらん」というわけではないだろうが、主力の6人を自宅に泊め、合宿を行った。朝食をとらせ、弁当を持たせて送り出すと、午後は8時まで練習し、帰宅後は夕食をつくって食べさせた。かくして、夏の初陣。3回戦で足立に敗退したが、前田・帝京は2勝を記録している。

 若い前田さんはその間も、時間を見つけては徒歩、あるいは自転車で中学校をコツコツと回り、「有望な選手がいたら、ぜひ帝京を受験させてくれませんか」と売り込む。そういう日々で徐々に力をつけはしたが、それでも当時は、先述のように日大勢が全盛である。能力の高い子ほど、日大系列に進む。3年目の74年夏には、東西2代表制になった東東京でベスト8まで進んだが、準々決勝で敗れた相手が日大一だ。翌75年夏はベスト4も、今度は早稲田実が立ちはだかった。勝つためにはどうしたらいいのか、考えあぐねる日々だ。

「同じ時期に監督になった石井(好博)さんの習志野には、同郷の同期生ということもあって、よく練習試合をお願いしましたね。石井さんがいうには『前田よ、行きたい、行きたいと思っているだけじゃ甲子園には行けねえよ。1回、甲子園を見せてやったらいいよ。それだけで全然違う』。聞くところによると石井さんも、高校2年のときに甲子園を見学して、全国で戦うにはあのレベルにならなくては……と痛感したらしい。だから私も、生徒を連れて見学に行きました。石井さんの習志野は、75年夏に全国制覇するんですが、練習試合ではウチもそこそこいい試合をしていましたから、それは励みになりましたね。

 練習試合といえば、若さの無鉄砲というか、ツテもないのに東海大相模の原貢監督にもお願いしました。ちょうど息子の辰徳がいたころで、見るも無惨にやられたけどね。それより、学校のグラウンドでの練習試合なのに、若い女性ファンがいっぱいなのはビックリでした。そして原監督には『前田君、勝ちたいか。勝ちたければ、武道の本を読みなさい。日本の野球は、武道だよ』とアドバイスを受けて、吉川英治さんの”宮本武蔵”を読みましたね。73年のセンバツで優勝した横浜・渡辺(元、のち元智)さんの本も、アンダーラインで真っ赤になるくらい読んだ」

[page_break:お馴染みの縦縞ユニフォームで78年春に甲子園初出場。そして80年にはセンバツ準優勝]

お馴染みの縦縞ユニフォームで78年春に甲子園初出場。そして80年にはセンバツ準優勝

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前田三夫監督(帝京)*2019年秋季都大会 創価戦より

 そういう日々で力を蓄えたチームは、74年秋には東京で準優勝。翌75年春は優勝、夏ベスト4と有力校のひとつに定着する。阪神ファンだった当時の東畑 秋夫校長が「甲子園が本拠地の、阪神と似たユニフォームに」と提案し、おなじみの縦じまのユニフォームになったのはこのころだ。そして77年秋に東京で準優勝し、78年センバツに初出場を果たすのである。「みんなで甲子園に行こう」という就任の挨拶から、丸6年がたっていた。だが前田さんによると、「初出場のセンバツは、小倉(福岡)に0対3で負け。緊張しましたね。試合が始まって気がついたらもう7回で、そこまで3回くらいしかサインを出していない(笑)」。

 帝京が全国の高校野球ファンに認知されるのは、わずか1時間48分だったこの試合から2年後、80年のセンバツだろう。伊東 昭光(元ヤクルト)をエースに、準優勝。伊東は、完封2試合を含む5試合すべて完投で、防御率0・53という抜群の投球内容だった。当時まだ2年。伊東がいれば、夏の甲子園初出場どころか全国制覇も夢じゃない……学校関係者も色めき立つ。だが、時代の巡り合わせというのは皮肉なものだ。この年に荒木 大輔(元ヤクルトなど)が入学した早稲田実(当時は東東京所属)が、80年夏から82年夏まで5季連続出場。帝京は当然その間、甲子園から遠ざかる。

「センバツには出られても、夏はなかなか……初めて東の決勝まで行った77年夏に負けたのが早実で、センバツ準優勝の80年夏も早実に準決勝で負け。当時の和田 明監督は百戦錬磨、人を食ったような采配で、たたみかけるのがうまかったんですよ。大事な1点を取られて”痛いなぁ”と考えているうちに盗塁、エンドラン。しかも、甘い球は見逃さない。勝てなかったのは、監督の未熟さですね」

 と前田さんは振り返るが、伊東がいるのになぜ負けるんだ、前田じゃダメだ……と、帝京高のOBがしゃしゃり出てくる。甲子園に出るまでは見向きもしなかったのに、だ。円形脱毛症になるほどのストレス。だが前田さんには、部員4人から手塩にかけてきた自負がある。1年以内に甲子園に行ったら続投、という条件を飲んだからには、勝つしかない。そして、荒木が抜けた82年秋。帝京は、そこまでの鬱憤を晴らすように圧倒的な強さで東京を制し、翌年のセンバツに出場する。大型チームで、前評判では東の横綱と称された。初戦の相手は、前年夏に全国制覇した池田(徳島)。エースの水野 雄仁(元巨人)、蔦 文也監督率いる山びこ打線の迫力が健在の、西の横綱だ。

[page_break:池田との大敗で始まった大胆な改革。そして甲子園優勝]

池田との大敗で始まった大胆な改革。そして甲子園優勝

前田三夫(帝京前監督)②「夏の全国制覇を勝ち取るまでの修行期間と大胆改革」 | 高校野球ドットコム
前田三夫監督(帝京)*2020年野球部訪問より

「こっちだって、東京で圧勝している自負はありました。でも……試合が始まったとたんに“負けた”と思った。体も打球も、監督の風格も貫禄も、すべて違った。結局、穴があったら入りたいような0対11の惨敗です。池田はこの大会で優勝するわけですが、全国制覇しようと思ったら、あのレベルに勝たなくてはいけない。池田の子たちは、子どものころから野山を駆けまわり、魚もふんだんに食べ、本質的な体のたくましさ、強さというものがありました。そこへいくと東京の子は外で遊ばないし、ファストフードが大好きと、ひ弱もいいところです。いくら洗練されて技術が秀でていても、本物のたくましさには粉砕されます。そこを乗り越えなくては……」

 大きな転機だった。並大抵なことではないが、コテンパンにやられたからこそ、大胆な変革にも取り組める。まずは、池田の選手に負けない体を作ること。池田が筋トレに取り組んでいると聞き、週に3回のトレーニングと、3回の水泳をメニューに加えた。さらに、栄養管理を徹底した。選手たちの弁当の中身をチェックし、栄養が偏っていたり、量が少ないと、母親に懇願した。もうちょっとご飯を多くしてください。いまでいう食育だ。ときには食の細い選手とどんぶり飯をはさんで対面し、食べ終わるまで目を光らせた。

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トレーニングに励む帝京の選手たち*2020年野球部訪問より

 池田に恩返しする機会が巡ってきたのは、85年のセンバツだ。準決勝で対戦し、小林 昭則(元ロッテ)が池田打線を1対0と完封。決勝は渡辺 智男(元西武など)がエースの伊野商(高知)に敗れたものの、2度目の準優勝だった。芝草 宇宙(元日本ハムなど)のいた87年には春ベスト8、夏ベスト4。どちらも、春夏連覇するPL学園(大阪)に敗れたが、帝京は甲子園劇場で重要なキャストになった。

 主役になるのは、89年夏だ。吉岡 雄二(元近鉄など)をエースに、春夏通算3度目の決勝に進出。大越 基(元ダイエー)がエースの仙台育英(宮城)との一戦は白熱の投手戦となり、試合は0対0のまま帝京9回裏の守りを迎える。2死三塁のピンチ。前田さんは開き直った。

「センバツでは、2回決勝に出て負け。もしここで勝てないのなら、オレは一生優勝とは縁がない定めなんだ、とね。それが通じたのか、吉岡が次打者を打ち取ってくれた」

 このピンチを切り抜けた帝京は延長10回表、鹿野 浩司(元ロッテ)の2点タイムリーで決勝点をあげ、平成最初の夏の覇者となる。そこから平成7(95)年夏まで、7年で3回の全国制覇は、黄金時代といっていい。前田さん、初優勝のとき不惑の40歳。次回は、「一番感慨深い」という仙台育英との決勝秘話から始めたい。

(記事:楊 順行

【第3回を読む】

この記事の執筆者: 高校野球ドットコム編集部

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