一塁ベースコーチで全日本大学野球選手権出場。その経験が大きな財産に



前田三夫監督(帝京)*2020年東京都独自大会 東海大菅生戦より

 それでも前田さんは、弟のような高校生たちに親身になって教えた。大学の練習で培った技術を伝え、バッティング投手をこなす。自分の練習にもなるから、朝から晩まで汗にまみれていっしょに体を動かした。大学のある八王子から、当時高校のあった北区十条まで電車を乗り継ぐ移動はさながら東京横断だが、それも苦にならない。やがて春休みが終わり、大学に戻ると、前田さんのそういう熱心さが監督の耳に入る。野球の虫ともいえる熱意が通じたのか、大学4年の春、念願のベンチ入りを果たす。春季合宿に帯同しない居残り組からの抜擢は、きわめて異例だった。

「うれしかったねぇ、ホントに。とはいっても試合に出られるわけじゃないんです。役割は一塁ベースコーチなんだけど、"よしっ、ここがオレのポジションだ!"と張り切りましたよ。だから、死にものぐるいで野球を勉強したよね。相手投手のクセを探し、戦術を研究し、試合になったらチームを盛り上げて。打席も守備もないくせに、本人はキャプテンのつもりだったなぁ。
 あの経験は、のちにチームづくりするうえでの財産になりました。選手の動きというものを、フィールドの外から広い視野で見られたし、中心選手にやる気を起こさせるとチームが一変するというのも、このときに学んだね」

 前田さんが一塁ベースコーチを務めたこの71年春、帝京大は首都大学で初優勝を果たす。初出場した大学選手権でも、前田さんはコーチャースボックスに立ち、チームも1勝を記録した。

 帝京大の事務局長も務めていた野球部長から、「帝京高校の監督にならないか」と持ちかけられたのはこのころだ。いったんは、断った。大学ではレギュラーになれそうになくても、まだ現役への未練がある。プロはむろん夢物語にしても、たとえば社会人でもう一度野球に挑戦したい。だからツテをたどって、プレーを続ける道を探している最中だったのだ。ただ一方で周囲は、「前田には指導者、高校の監督が向いているんじゃないか」としきりにすすめる。当時から、ノックの腕はピカイチだった。難易度の高いキャッチャーフライも自在に打ち分け、大学の捕手陣は「前田、フライを打ってくれよ」とノックをせがんできた。

 あるいは……前田さんが高校3年だった67年の夏には、中学時代から身近な存在だった石井が、習志野のエースとして全国制覇を果たしている。高校時代はあまりに遠い存在だっただけに、自分も甲子園に行ってみたい。それには、高校の指導者というのはいいチャンスだ……。こうして翌72年、帝京高・前田三夫監督が誕生するわけだ。

(記事:楊 順行)

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