目次

[1]群馬野球を支えた前橋工
[2]59年夏を彩った宇都宮工

群馬野球を支えた前橋工


 日本の高度成長の時代とともに、昭和の高校野球最盛期があり、工業校も元気があった。戦前は軍需関係含め重工業従事者育成を目的として設立されて工業学校。それが、戦後になって高度経済成長の勢いとともに、主に機械科、電気科などが主力となって工業学校は工業高校となっていって、工業技術職を目指す若者から人気となった。

 まさに、日本の産業発展と共に求められていったのが工業校だったといてもいいであろう。それはまた、昭和時代の後半の経済成長とともに、工業高校も元気で勢いがよかった時代でもあった。
 高校野球しでもそれが反映されていて、北関東では前橋工宇都宮工のいう県庁所在地にある両校が先陣を切っていた。

 前橋工は1923(大正12)年に、群馬県の主産業でもある養蚕をベースとして染織科と製糸科から始まっている。やがて土木科なども設置されて今日に至ることとなる。その伝統に根ざして、今の時代になっても、ものづくりということで言えば相撲ロボット、アイディアロボット、マイコンラリーが全国大会出場の実績を持っている。

 そして、野球部は創立翌年に創部され、その実績としては1966(昭和41)年春の初出場を始まりとして、74年夏には下手投げの向田佳元投手を擁してベスト4に進出。昭和も半ばを過ぎた時代になって、全国に台頭してきている。

 その後も、甲子園出場を重ねていき、群馬県では高崎商とともに、昭和時代後期になると群馬県をリードしていっていた桐生に代わって2強を形成しているという存在となった。81年夏は1年生の渡辺久信投手(現西武SD)で出場を果たしたものの、初戦で京都商(現京都先端科学大附)にサヨナラ負けした。

 以降、やや甲子園から遠ざかっていたが、平成に入って、95年春にベスト8に進出すると、翌年の96年夏、97年夏と2年連続でベスト4と、甲子園でも上位へ食い込む強豪という位置付けを示す存在となった。この時期が、前橋工の歴史としても最強時代だったともいえようか。

 県立校ではあるが、地元の建設会社がバックボーンとして支えてきたという歴史もあり、このあたりは地場産業としての高校野球という形態も示しているとも言えようか。
 令和になって、復活を期待している群馬県のファンも多いことであろう。

 群馬県の工業校としては、戦後すぐの時代には繊維産業の発展もあって繊維産業でも栄えた桐生市の桐生工が46年から60年までの15年間で春夏合わせて4度出場を果たしている。