目次

[1]高校時代の恩師に謝罪。行動で見せた野球を続けたい思い
[2]弱さを受け入れ、今自分ができることにコミットすることが大事
[3]プロ9年間で通算6勝。もう少し理論を重視すべきだった
[4]人々に感動を与えたい。現役引退直後に起業を決断
[5]監督に指導されたことが卒業後にわかる日がくる

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 9年間、プロ野球選手としてプレーし、引退直後に起業。いまはビジネスパーソンとして活躍しているのが、株式会社l'unipue(リュニック)の小杉陽太社長だ。

 2008年にドラフト5位で横浜ベイスターズに入団し、プロ生活9年間で86試合に登板した小杉さん。晩年は中継ぎとして2年連続で20登板以上を果たすなど、チームに欠かせない存在となったが、怪我の悪化から2017年に現役を引退。その後は経営者としてイベント事業をスタートし、現在では企業PRやコンサルティングなど、幅広い専門性を武器に実績を上げ続けている。

 そんな小杉さんは、鈴木 誠也選手(広島東洋カープ)などを輩出した東京都の名門・二松学舎大附の出身で、現在の活躍の土台は高校時代にすべて作られたと断言する。

 3年間の高校野球は、小杉さんにどのような影響を与えたのだろうか。

高校時代の恩師に謝罪。行動で見せた野球を続けたい思い



二松学舎大附OB 小杉陽太さん

 千葉県柏市にある二松学舎大附グラウンドを訪れた小杉さんは、市原監督が来るまで駐車場で待った。

「今までずっと退部の報告をせず、今さら謝罪に行っても多分相手にされないだろうな」

 不安を抱える中で監督が到着すると真っ先に謝罪に行ったが、予想していた通り、市原監督は完全に小杉さんのことを無視した。
「言葉なんてなかったですね。完全に無視で、空気と同じ扱いでした。目も合わせることなく練習に入っていき、僕はずっとグラウンドの隅に立っていました。夜になってもそのまま無視して帰られましたが、でも悪いのはずっと退部の報告をしなかった自分です。ちゃんと受け入れて、向き合っていかなくてはいけないと思いました」

 だが、監督からのアクションをのんびり待つわけにはいかない。
 謝罪の気持ち、そしてもう一度野球に打ち込みたい意思を伝えるためには、行動で示すしかないと思った小杉さんは、まず翌日から現役選手たちのサポートを行うことにした。

 誰よりも早くグラウンドに行ってグラウンド整備を行い、練習中もボール拾いや打撃練習のサポートを率先して行う。そしてその合間に自らの練習も続け、野球を続けたい意思をひたすら行動で示し続けた。

 すると3週間ほど経った頃、ついに市原監督から話し掛けてもらえたのだ。
「『お前本当にまだ野球がやりたいのか』と言われて、本当にやりたいですと答えると、『この3週間くらいのお前の姿勢や行動を見たら、今回に限っては強い気持ちを感じた。今までのお前は、大学もやめて、俺のことも避けて、いろんなことから逃げてきたけど、また野球がやりたいなら一緒に進路を探してやる。ここで練習しとけ』と言われました。
 市原監督には本当に頭が上がらないですし、感謝しきれません」

 市原監督の許しを得て、二松学舎大附のグラウンドで練習を行いながら、野球を続ける環境を探すことになった小杉さん。亜細亜大学を中退してから、すでに半年以上の時間が経過していた。

 まずはスカウトの目に留まりやすい都市対抗野球大会への出場を目指し、社会人野球チームを中心に探したが、当初はなかなか受け入れてくれる企業が見つからない。企業側から見ると時期的に採用は難しく、野球部入部での中途採用も前例がほとんどない。

「今年度中の社会人野球入りは難しいかもしれない」

 企業チームではない、クラブチームへの入部も視野に入れはじめた、そんなある日。突然、社会人野球の強豪・JR東日本の堀井哲也監督(現慶応大学硬式野球部監督)から、練習を見せてほしいと連絡が届いたのだ。

 実は亜細亜大学とJR東日本とはよくオープン戦を行っており、下級生ながら毎回良いピッチングを見せていた小杉さんに、堀井監督は早い段階から目をつけていた。だが、小杉さんが3年生のシーズンに突如名簿から名前が消え、退部したことを知り、「彼はまだまだやれる」と各所を探し回っていたというのだ。

 後日、小杉さんのピッチングの状態を見るために、堀井監督は二松学舎大附のグラウンドへ訪れた。
「ピッチング練習が始まるとたった3球しか見ていないのに、もう大丈夫と言ってくれたんです。『ボールも元気だし目も死んでいない。明日からうちの施設に来て練習しなさい』と言われました。その後、堀井監督が会社にも掛け合ってくれたようで、こうして無事にJR東日本へ入社することが決まります。ご縁と運があり、そしていろんな方に支えられて決まった進路でした」