目次

[1]野球よりもバスケット少年だった小学校時代
[2]立場や責任が選手としての自覚を生む
[3]選手の自主性を重んじた市原勝人監督の指導方針
[4]怪我が続き大学を中退。アルバイトに明け暮れる日々

選手の自主性を重んじた市原勝人監督の指導方針

 3年生が引退し、最上級生として後輩たちを引っ張る立場となった小杉さん。

 ミーティングにもこれまで以上に身が入り、またエースとしての強い自覚を持つようになったと振り返るが、練習メニューを選手たちだけで決める自主性を重んじた指導が特に印象に残っていると語る。
「市原監督の方針で、練習メニューは選手たちだけで考えていました。『お前たちでメニューを考えてそれを事前に俺へ持ってこい」と。しかも『これをやっていいですか』ではなくて、『これをやります』といった形で持っていき、なぜこのメニューを行うのかを説明した上で練習に取り組んでいました。

 1週間の練習メニューを上級生だけで考えて、それを後輩たちにも説明しながら自らも実践する。それによって考える癖がつきました」
 2003年当時の高校野球界は、監督から与えられたメニューをこなすスタイルが主流で、市原監督の指導方針は非常に珍しかった。

 新チーム結成当初は何となくで決めていたメニューも次第に洗練されていき、同級生とも建設的に議論できるようになっていく。大会期間や冬場のトレーニング期、また選手の力量や立ち位置によっても個別にメニューを変え、さらには理屈と根性を使い分けながらメニューを考えたと小杉さんは振り返る。
「僕であれば主に先発投手でエースでもあったので、大会前になったら走り込みの本数を減らして、登板する可能性の低い投手などは、もう少しトレーニングの出力を上げて筋力を維持しようとか。今振り返っても建設的な議論ができていたと思いますし、必要に応じて根性論を振りかざすこともありました。
 当時としては珍しかったと思いますが、選手たちで建設的に話し合える文化があったからこそ二松学舎大附は強かったのだと思いますし、自主性を持って考える癖は経営者の現在にもつながっていると感じています」

 選手の自主性を重んじる環境の中で投手陣を引っ張り、またエースとしてもチームを牽引していた小杉さん。

 新チームでも地道に実力を伸ばしていき、3年生になると最速は147キロに到達。選抜甲子園出場は惜しくも逃したが、東京都屈指の注目投手として名前もあがるようになり、2年春以来の甲子園出場へ自信を持って最後の夏を迎えた。

 大会では、初戦から3試合連続で二桁得点を記録するなど盤石の戦いを見せる二松学舎大附。小杉さんも自慢の速球を武器に好投を続け、5回戦以降も世田谷学園関東一岩倉と強豪校を打ち破り、決勝進出を果たした。

 甲子園まであと1勝。決勝戦の相手は、初優勝を狙う都立雪谷だった。
 試合は投手戦となり、8回を終えて得点は0対0の同点。膠着状態のまま9回を迎えたが、ここで小杉さんは都立雪谷打線につかまってしまった。
「無死一、三塁の場面で、バッターは四番。ツーストライクと追い込み、キャッチャーのサインはストレートでしたが、僕は首を振ってスライダーを投げました。冷静に相手を分析して投げたスライダーでしたが、ボールが抜けて甘いコースにいってしまいタイムリーヒットを打たれてしまいます。
 結局、9回だけで5点を取られてしまい、二松学舎大附は甲子園を逃します。要求通りストレートを投げておけばどうなっていたのだろうと、今でも悔いが残りますね」

 これまでの実績だけを見れば、二松学舎大附の方が上であったが、小杉さんは甲子園出場を逃す。
 自主性の中で心身ともに大きな成長を遂げたが、自らの判断ミスにより終わりを告げた高校野球。後悔と充実感の狭間で、小杉さんは明治神宮球場を後にした。