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逃げ回った野球人生から得たものは自分の弱さを受け入れること。 株式会社l’unipue 小杉陽太社長(二松学舎大附出身)vol.1

2021.11.26

逃げ回った野球人生から得たものは自分の弱さを受け入れること。 株式会社l'unipue 小杉陽太社長(二松学舎大附出身)vol.1 | 高校野球ドットコム
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逃げ回った野球人生から得たものは自分の弱さを受け入れること。 株式会社l'unipue 小杉陽太社長(二松学舎大附出身)vol.1 | 高校野球ドットコム14名の社長が語る高校野球の3年間で学び、活きているがまとめられた書籍が発売
人生で大切なことはすべて高校野球から教わった

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 9年間、プロ野球選手としてプレーし、引退直後に起業。いまはビジネスパーソンとして活躍しているのが、株式会社l’unipue(リュニック)の小杉陽太社長だ。

 2008年にドラフト5位で横浜ベイスターズに入団し、プロ生活9年間で86試合に登板した小杉さん。晩年は中継ぎとして2年連続で20登板以上を果たすなど、チームに欠かせない存在となったが、怪我の悪化から2017年に現役を引退。その後は経営者としてイベント事業をスタートし、現在では企業PRやコンサルティングなど、幅広い専門性を武器に実績を上げ続けている。

 そんな小杉さんは、鈴木誠也選手(広島東洋カープ)などを輩出した東京都の名門・二松学舎大附の出身で、現在の活躍の土台は高校時代にすべて作られたと断言する。

 3年間の高校野球は、小杉さんにどのような影響を与えたのだろうか。

野球よりもバスケット少年だった小学校時代

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二松学舎大附OB 小杉陽太さん

 1985年生まれ、東京都江東区出身の小杉さん。

 学生時代にバスケットボールに打ち込んだ両親の影響から、幼い頃は野球ボールではなくバスケットボールに触れる機会が多かった。小学校の低学年時からミニバスケットボールのチームにも入っていたが、6年生の時に大きな転機が訪れる。

 同じクラスに少年野球チームでキャプテンを務める友人がおり、助っ人として誘われたことで野球への興味が湧いてきたのだった。
「小学校6年生の5月に、人数が足りないからとチームに誘われ、そこで野球の面白さに惹かれてチームに入りたいと思いました。両親にははじめは反対されましたが、最終的には『自分がやりたいのであればいいよ』と認めてもらい入団することができました。
 実は両親がバスケをやっていたことから、自分も仕方なくやっていた側面があり、最後の方は半分やらされている状態でした。やめる理由を探してたところに、野球があったという感じで、そこからのめり込んでいきましたね」

 入団したチームは、松坂大輔さん(埼玉西武ライオンズ)もかつて在籍した東陽フェニックス。バスケットボールで培った運動神経を武器に、入団直後から三塁手を務め、また夏以降からは投手も任されるなど即戦力として活躍した。

 実はバスケットボール以外にも、これまでサッカーや水泳を経験しており、小杉さんは様々なスポーツに触れる中で、運動神経が発達していったのではないかと口にする。
「バスケ以外に水泳もやっていて、さらに一時期は平日にサッカーの練習が入るなど、忙しくいろいろなスポーツをしていました。野球は、空き地で友人とカラーボールでのキャッチボールをする程度でしたが、今思うと運動神経が鍛えられたことで野球にもすぐに対応できたのかなと思います」

 その後、小学校6年生の1月からは硬式野球に触れるために東京北砂リトルに入団し、中学1年生の夏からは中学硬式ポニーリーグの強豪・江東ライオンズへと進んだ小杉さん。東京北砂リトルと江東ライオンズが練習するグラウンドは隣り合っており、自然な流れで入団を決めたという。

 下級生時は肘を怪我した影響で野手中心のメニューをこなしていたが、怪我の癒えた2年生の夏以降はチームの絶対的なエースとして君臨する。

 周りの中学生よりも頭一つ抜けた身長に、しなやかな腕の振りから投げ込む伸びのある直球。関東圏ではたちまち注目を浴びる存在となり、中学3年生の夏には球速は135キロを記録した。

 全国各地の高校から声を掛けられたが、その中で小杉さんは地元の強豪校・二松学舎大附への進学を決める。
「同じチームから同級生二人が二松学舎大附に進学することが決まっていて、また自宅から近いことが決め手になりました。その他にも、東京都内の強豪校や遠いところでは沖縄からも声を掛けていただきましたが、江東ライオンズに二松学舎大附出身のスタッフが多くいたことも安心できるなと思いましたね」

[page_break:立場や責任が選手としての自覚を生む]

立場や責任が選手としての自覚を生む

 2001年4月、二松学舎大附に入学し、硬式野球部にも入部した小杉さん。だが、実際に高校野球の世界に飛び込むと、想像以上に苦しいことが非常に多くあった。

 練習の雰囲気は常に張り詰めており、チームの規律も中学とは比べものにならない。
 中でも特に小杉さんを驚かせたのは、ミーティングの多さと時間の長さであった。

二松学舎大附の市原勝人監督は、ミーティングをすごく大事にされていて、連日2時間くらいのミーティングをするんです。1年生の時はそれがとにかく長く感じて、どうしても眠たくなってしまうんです。最初は言ってることの1割くらいしか頭に入ってきませんでした」

 慣れない環境での練習や生活に、必死の思いで日々を過ごした小杉さん。
 だがその一方で、入学直後から練習試合では登板機会を掴むなど、大きな期待もされていた。夏には1年生ながら背番号をもらいベンチ入りを果たし、3年生が引退した直後の新チームでは投手陣の一角として登板機会も一気に増える。

 責任ある立場に置かれたことで、小杉さんにも自覚が芽生える。すると、かつては眠気をこらえる時間だった日々のミーティングが、まるで違う刺激的な時間になった。
「責任が伴ってくると、自ら内容を理解しようとし始め、少しずつ監督の仰ることが理解できるようになってきます。そして内容が理解できると、今度は言われることを自分の立場に当てはめてシュミレーションできるようになります。普段の自分に当てはめるなら、こういうことだろうなと頭の中で考えていると、2時間のミーティングはあっという間に終わってしまいます。やるべきことが整理されているので、グラウンドでの練習の質もとても高くなりました」

 こうして、高校野球でも少しずつ実績を残しはじめた小杉さん。1年生ながら秋季東京都大会準優勝に貢献し、見事選抜甲子園への出場を掴んだ。
 大会では、太もも大腿骨の疲労骨折の影響で登板こそできなかったが、ブルペンの雰囲気を味わえただけでも野球人としての幸せを感じた。
「甲子園はやっぱり素晴らしいと感じました。怪我の状態でも監督さんがベンチに入れてくださり、ブルペンにも入りました。監督さんは行けるかと聞いてくれましたが、痛みがあったので『難しいです』と答えました。
 もちろん痛みをこらえて投げたい思いはありました。しかし、無理をしてマウンドに立てば、当然出力も上がるだろうし、怪我は取り返しがつかないほど悪化していたかもしれません。今振り返っても、投げなくて正解だったなと思います」

 試合には出場できなかったものの、甲子園球場の雰囲気を経験して、さらに高いモチベーションで練習に打ち込んだ小杉さん。3年生の先輩たちが引退した2年夏以降は、チームの絶対的なエースに定着し、さらに成長を遂げるのであった。

[page_break:選手の自主性を重んじた市原勝人監督の指導方針]

選手の自主性を重んじた市原勝人監督の指導方針

 3年生が引退し、最上級生として後輩たちを引っ張る立場となった小杉さん。

 ミーティングにもこれまで以上に身が入り、またエースとしての強い自覚を持つようになったと振り返るが、練習メニューを選手たちだけで決める自主性を重んじた指導が特に印象に残っていると語る。
「市原監督の方針で、練習メニューは選手たちだけで考えていました。『お前たちでメニューを考えてそれを事前に俺へ持ってこい」と。しかも『これをやっていいですか』ではなくて、『これをやります』といった形で持っていき、なぜこのメニューを行うのかを説明した上で練習に取り組んでいました。

 1週間の練習メニューを上級生だけで考えて、それを後輩たちにも説明しながら自らも実践する。それによって考える癖がつきました」
 2003年当時の高校野球界は、監督から与えられたメニューをこなすスタイルが主流で、市原監督の指導方針は非常に珍しかった。

 新チーム結成当初は何となくで決めていたメニューも次第に洗練されていき、同級生とも建設的に議論できるようになっていく。大会期間や冬場のトレーニング期、また選手の力量や立ち位置によっても個別にメニューを変え、さらには理屈と根性を使い分けながらメニューを考えたと小杉さんは振り返る。
「僕であれば主に先発投手でエースでもあったので、大会前になったら走り込みの本数を減らして、登板する可能性の低い投手などは、もう少しトレーニングの出力を上げて筋力を維持しようとか。今振り返っても建設的な議論ができていたと思いますし、必要に応じて根性論を振りかざすこともありました。
 当時としては珍しかったと思いますが、選手たちで建設的に話し合える文化があったからこそ二松学舎大附は強かったのだと思いますし、自主性を持って考える癖は経営者の現在にもつながっていると感じています」

 選手の自主性を重んじる環境の中で投手陣を引っ張り、またエースとしてもチームを牽引していた小杉さん。

 新チームでも地道に実力を伸ばしていき、3年生になると最速は147キロに到達。選抜甲子園出場は惜しくも逃したが、東京都屈指の注目投手として名前もあがるようになり、2年春以来の甲子園出場へ自信を持って最後の夏を迎えた。

 大会では、初戦から3試合連続で二桁得点を記録するなど盤石の戦いを見せる二松学舎大附。小杉さんも自慢の速球を武器に好投を続け、5回戦以降も世田谷学園関東一岩倉と強豪校を打ち破り、決勝進出を果たした。

 甲子園まであと1勝。決勝戦の相手は、初優勝を狙う都立雪谷だった。
 試合は投手戦となり、8回を終えて得点は0対0の同点。膠着状態のまま9回を迎えたが、ここで小杉さんは都立雪谷打線につかまってしまった。
「無死一、三塁の場面で、バッターは四番。ツーストライクと追い込み、キャッチャーのサインはストレートでしたが、僕は首を振ってスライダーを投げました。冷静に相手を分析して投げたスライダーでしたが、ボールが抜けて甘いコースにいってしまいタイムリーヒットを打たれてしまいます。
 結局、9回だけで5点を取られてしまい、二松学舎大附は甲子園を逃します。要求通りストレートを投げておけばどうなっていたのだろうと、今でも悔いが残りますね」

 これまでの実績だけを見れば、二松学舎大附の方が上であったが、小杉さんは甲子園出場を逃す。
 自主性の中で心身ともに大きな成長を遂げたが、自らの判断ミスにより終わりを告げた高校野球。後悔と充実感の狭間で、小杉さんは明治神宮球場を後にした。

[page_break:怪我が続き大学を中退。アルバイトに明け暮れる日々]

怪我が続き大学を中退。アルバイトに明け暮れる日々

 プロ野球のスカウトからも注目された小杉さんだったが、高校卒業後は亜細亜大学への進学を決断する。大学4年間でさらに力を付けてのプロ入りを目指したが、しかしここから大きな挫折を味わうことになる。

 亜細亜大学でも、1年春のリーグ戦からデビューを果たすなど大きな期待を背負っていたが、怪我の多さに悩まされ、徐々に思い描いていた成長曲線とのギャップを感じ始めた。同級生が徐々に頭角を現していく中で、焦りから無理なトレーニングでさらに怪我が重なり、小杉さんは野球への情熱を徐々に失っていく。

 結果、大学3年生の進学直前に硬式野球部を退部。そのまま大学も退学した。
「ソフトバンクホークスの松田宣浩さんと同部屋だったことがあるのですが、一緒にいて、こんな人がプロに行くのだろうなと感じました。リーダーシップやチームを鼓舞する力、才能も練習量もありましたし、常に野球のことを考えていました。いつもVHSで井口資仁さんの打撃映像を見ていて、夜に突然部屋でバットを振り始めることもありましたね。
 そんな松田さんと自分を照らし合わせた時に、大きな差を感じました。僕はプロには行けないだろうなと思ってしまい、野球からだんだん気持ちが離れていきました。松田さんを真似しようと思ってもできなかったし、ただ同じ練習をするのではなく、本質的に取り組まないと練習を行う意味合いが変わってくるなと思っていました。自分だったらどんなプロセスを踏めるだろうと考えた時に、あまり答えが思い浮かばずに逃げ出してしまいました」

 退学後、小杉さんは野球とは距離を置き、アルバイト生活に明け暮れた。昼はハンバーガー店、夜はバーで働き、空き時間には仲間たちと遊び呆ける日々。これまで野球しかやってこなかった小杉さんにとっては刺激的でもあったが、その生活にもすぐに飽きてしまい、虚しさが込み上げてきた。

 気持ちは自然と野球へ向かい、明治神宮球場へ足を運んでかつてのチームメイトがプレーする姿を見に行くが、その姿にさらに虚さは増すばかり。そんな小杉さんの空虚な心を埋められるのは野球しかなかった。アルバイト中にも野球のことを考えるようになり、休憩中に鏡を見つけるとシャドーピッチングをしてしまう。

 本当にやりたいのはこんなことじゃない。

 小杉さんはアルバイトをやめて、もう一度野球に打ち込むことを決断する。
「その後、中学時代に所属した江東ライオンズで練習していました。二松学舎大附の市原監督に対しては音信不通で、本来、大学をやめた時に報告に行くべきでしたが、それを怠っていました。当時は僕もまだ20歳で、できれば市原監督とは交わることなくどこかで野球をできればいいなと考えており、都合よくまた野球がやりたいのでお願いしますなんて言えませんでした。
 ですが、江東ライオンズで練習し初めてから一か月くらい経ったある日、当時の若林監督や三村総監督から『ここにいても先がないから、市原監督に頭を下げて高校で練習させてもらって、進路を一緒に探してもらった方がいい』と言われました。
 それは僕も薄々気付いていて、江東ライオンズで練習していても社会人野球とのつながりもないし、高いレベルで野球を続けるならまずは市原監督に謝るしかないなと思いました」

 小杉さんは、恩師・市原監督へ謝罪するため、二松学舎大附の野球グラウンドへ足を運んだ。

 今回はここまで。次回は小杉さんがいかにしてプロの世界に飛び込み、そして現在に至ったのか。その道のりに迫っていった。

(取材:栗崎 祐太朗

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この記事の執筆者: 高校野球ドットコム編集部

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