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人間的な拙さから後悔ばかりだった野球生活。 弱さを認め、乗り越えたからこそ今がある 株式会社L.M.K・代表取締役岡本篤志さん(三重県・海星高校OB)

2021.11.26

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 埼玉西武ライオンズのブルペンを支えた鉄腕は今、経営者として日本と東南アジアの架け橋になっている。

 海外人材を日本企業へ紹介する株式会社L.M.K。代表取締役を務めるのが岡本篤志さんだ。
岡本さんは、2003年に明治大学からドラフト6巡目で西武ライオンズに入団し、13年間の現役生活を送った。2016年限りで現役を引退すると、2018年9月からは外国人紹介事業を立ち上げ、ミャンマーを中心に東南アジアの人材を日本企業へ紹介している。

 そんな岡本さんは1981年生まれ。三重県の海星高校出身で、高校時代は甲子園に2度出場。3年生時には最速145キロ右腕として注目され、プロ野球選手としての土台を作った。だが経営者となった現在は、「ビジネスマンにも通ずるものが多くある」とも振り返る。

 高校野球での経験は、現在の岡本さんにどのような影響を与えたのだろうか。

県内では注目される存在だった中学時代

人間的な拙さから後悔ばかりだった野球生活。 弱さを認め、乗り越えたからこそ今がある 株式会社L.M.K・代表取締役岡本篤志さん(三重県・海星高校OB) | 高校野球ドットコム
三重・海星OB 岡本篤志さん

 大阪生まれの岡本さんは6歳年上の兄の影響もあり、物心ついた頃にはすでに野球ボールに触れていた。両親によれば、おもちゃで遊ぶよりも野球ボールで遊ぶことの方が多かったという。

 小学校3年生になると地域の少年野球チームに入団し、練習がない日も放課後には決まって野球。中学生となった兄の姿からも影響を受けながら、少年時代を過ごした。

「当時は5、6年生のチームと、それ以下のチームと分かれて試合などを行っていましたが、自分は3年生の時にはすでに上級生に混じってプレーさせていただきました。ずっとショートを守っていましたが、僕はずっとピッチャーをやりたいと思っていて、最初は嫌々ショートのポジションについていましたね」

 5年生時に三重県へ転居して所属チームは変わったが、ポジションはショートのまま。兼任でマウンドに立つことはあったが、本格的に投手のキャリアを進みはじめたのは中学生となってからだった。

 地域に硬式野球チームがなかったため、中学校の軟式野球部に入部した岡本さん。

 小学校時代のチームメイトの多くが、軟式野球部に入部するといったことも大きく影響した。中学校の軟式野球部としては練習はハードだったが、気心知れた仲間たちと野球ができることに楽しさを感じていた。

 夏に3年生の先輩たちが引退すると、新チームでは1年生ながら主戦としてマウンドに立つようになる。2年生の夏には絶対的エースの立場を確立し、三重県内では注目される存在となっていた。

「自分で言うのもなんですが、一応三重県の中では球が速い方だったので、多少は名前が通っていて、相手もそれなりに警戒する投手だったと思います。ただチームとしての実績はなくて、だいたい県大会の初戦で僅差で負けていました。プレッシャーに弱かったのか、急に打てなくなったんですよね」

[page_break憧れの海星高校へ進学。1年秋にはエースナンバーを掴む]

憧れの海星高校へ進学。1年秋にはエースナンバーを掴む

 そんな岡本さんが三重海星高校に進学したのは、甲子園出場への思いが強くあったためだ。当時、三重県で最も強いとされていたのは三重海星高校で、三重県に引っ越して以来ずっと憧れを抱いていた。岡本さんが中学3年の夏に行われた第78回全国高等学校野球選手権大会にも出場しており、「甲子園に行くなら三重海星高校しかない」と心に決めていた。

「大阪から三重に引っ越す直前のタイミングで、選抜甲子園を見に行きました。その日は開幕日で、第2試合には松井秀喜さんがいる星稜が登場します。入場行進から見に行こうと思っていましたが、その日に限ってJRがストライキで。電車が動かず、苦労しながらなんとか星稜の試合には間に合いました。なかなかたどり着けなかった分、松井秀喜さんのホームランもより印象深くて、甲子園への憧れが強くなりましたね。

 その後、三重に引っ越してからは三重海星高校に行こうと決めて、自分が中学3年の夏に三重海星が甲子園に出場した時は興奮しました。2回戦の早稲田実業戦では、2年生の4番バッターがサヨナラホームランを放ち、感動して絶対三重海星に行くんだ、と改めて思ったのを覚えています」

 その思いは実り、岡本さんには三重海星高校から声がかかり、晴れて入学が決まった。三重海星高校のユニホームに憧れの眼差しを向ける中で、高校野球のスタートラインに立った。

「僕の同級生には中学時代の日本代表に選ばれた選手もいて、かなり期待された世代だったと思います。1年生からレギュラーで試合に出場する選手もいて、僕も練習試合ではベンチに入れていただきました。

 結局、3年生が引退するまでは試合で投げることは出来ませんでしたが、背番号10でベンチ入りしていた2年生の先輩よりは僕の方が良いだろうと思っていました。正直、少し調子に乗っていて、小生意気なところはあったと思います」

 だが、3年生が引退して岡本さんに登板機会が与えられはじめると、次第に壁にぶつかるようになる。秋季大会では先輩投手を差し置いて背番号1を背負うが、県大会で敗れて選抜甲子園への出場を逃す。

 当時の秋季三重県大会は、ベスト4に進出した4校で総当たり戦を行い東海大会への出場チームを決めていたが、その総当たり戦で三重海星は一つも勝ち星を挙げることができなかったのだ。

 以降は、先輩投手にエースナンバーを明け渡し、岡本さんは背番号10に。この大会から、自身の野球との向き合い方を改めたと振り返る。

「僕はあまり練習が好きではなかったので、そういった姿を監督も見ていたのだと思います。春季三重県大会から背番号10番をつけることになってしまい、夏の三重大会まではずっと10番でした。

 ですが、その後は手を抜くことなく真剣に練習に取り組んだことが良かったのか、夏の三重大会ではとても調子が良く、決勝戦の三重高校戦では7回二死までノーヒットノーラン。試合は3対0で完封勝ちすることができて、甲子園出場を決めました。

 甲子園では再び背番号1番をもらうことができましたが、調子に乗っていた自分に監督が気付かせてくれたことが良かったのだと思います」

[page_break:「使命」だった甲子園出場。3年春には選抜ベスト8進出]

「使命」だった甲子園出場。3年春には選抜ベスト8進出

 背番号1を背負って、初の甲子園のマウンドに立った岡本さん。

 ちょうど松坂大輔投手(埼玉西武ライオンズ)を擁する横浜高校が春夏連覇を達成した大会で、後に「松坂世代」と呼ばれる強者たちが活躍を見せる中で、岡本さんも躍動した。

 雨天順延の影響で、三重海星高校が登場したのは大会6日目の第4試合。

 第1試合では村田修一さん(現巨人コーチ)擁する東福岡高校と古木克明さん(元横浜ベイスターズ)が4番に座る豊田大谷高校が対戦し、第2試合では横浜高校が登場。第3試合でも杉内俊哉さん(元巨人など)を擁する鹿児島実業が完封勝利を遂げ、後のスター選手が次々と登場。そんな舞台に、岡本さんも満を持してマウンドに立った。

「僕たちは東洋大姫路と対戦し、相手にはメジャーリーガーだった長谷川滋利さん(元マリナーズなど)の甥っ子さんがエースでいらっしゃいましたが、海星はその試合でホームランを3本放ち、僕も90球で完投勝利を挙げました。試合の内容も良く、1時間半で試合は終わりました。

 第4試合だったので、ナイターゲームを経験するチャンスだと思っていましたが、結局味わうことができなかったことを残念に感じた思い出があります」

 2回戦は強豪・星稜と対戦し、接戦の末惜しくも6対7で敗れた。岡本さん自身も先発登板したが、序盤から打ち込まれて途中交代。チームは流れを変えることができないまま敗退。岡本さんは複雑な感情の中で甲子園を後にしたと振り返る。

「3年生の先輩たちには申し訳ない気持ちが強かったですが、その一方で負けて良かったなと思う気持ちもありました。勝っていれば次は横浜高校でしたが、横浜高校とは力の差がありすぎると感じていました。負けた悔しさがある一方で、全国に恥を晒さなくて済んだと思う部分もあり、複雑な気持ちだったことを覚えています」

 3年生は引退したが、当時のチームは岡本さんをはじめとする2年生主体のチームで、彼らが最上級生となる新チームには大きな期待が寄せられていた。

 甲子園を経験した三重海星高校は秋季大会でも快進撃を見せる。秋季三重県大会で優勝を果たすと、その勢いのまま秋季東海地区大会も優勝。選抜甲子園への出場当確ランプを灯し、明治神宮大会にも出場を果たした。

 当時の心境を、「選抜甲子園出場は定められた使命だった」と表現する岡本さん。

 すでに東海地区ではチーム力は抜きん出ており、負けられない思いは部員たちの中にも浸透していた。夏の悔しさを晴らすべく自信を持って戦い、三重海星高校は2季連続での甲子園出場を掴んだ。

「明治神宮大会では初戦で1対10で負けましたが、テスト期間中だったためコンディションが悪く、特に自信を失うこともありませんでした。仕方ないなといった感じで、東京に思い出を作りに来た感覚でしたね。

 選抜甲子園では、1回戦では九産大九州と対戦しましたが、僕らの中では2回戦で対戦するであろう明徳義塾のことばかりが頭にありました。結果的に1回戦は競り合いになりながらも僅差で勝利して、2回戦の明徳義塾も撃破しましたが、準々決勝で水戸商に負けてしまいます。

 僕の中では優勝できるはずのチームだったので予想外の結果でした。足下をすくわれる結果となり、今になって振り返ると、当時の僕は少し野球を舐めてたのかなと思います」

[page_break:負けて初めて気付いた慢心。足下をすくわれる時は隙がある]

負けて初めて気付いた慢心。足下をすくわれる時は隙がある

 思わぬ敗退で、選抜甲子園は準々決勝で姿を消した海星高校。

 慢心があったことにこの時気が付くべきであったが、当時はそこまでの人間力が岡本さんには備わっていなかった。

 無意識の心驕りを抱えたまま最後の夏を迎え、それは最悪の形で露見することになる。

 選抜甲子園ベスト8進出を果たして学校へと戻った三重海星ナインは、その後はとにかく負けなかった。エースの岡本さんを温存しながら春季三重大会を制し、春季東海大会でも頭角を現した2年生投手が好投。

 準決勝に勝ち進むと、そこでようやく岡本さんが登板して貫禄の好投。決勝戦は惜しくも敗れたが、そこでも岡本さんの登板はなく2年生投手が投げ切った。

 盤石の戦力を擁して、さらに2年生投手の台頭。3季連続の甲子園はほぼ確実とさえ感じていた。

「選抜甲子園でベスト8まで行って、帰ってきてからも正直ちやほやされました。やっぱり高校生なので嬉しいですし、大会でも練習試合でもほぼ負けないんですよ。春季東海地区大会の決勝も、僕が投げていれば普通に勝てると思っていましたし、調子に乗っていたように感じます」

 そんな中で迎えた最後の夏。岡本さんの調子も上々で、三重海星高校は順調に勝ち上がっていく。

 特に準決勝は絶好調で、自己最速の145キロを記録して2安打完封勝利。3季連続の甲子園出場まであと1勝に迫った。

「準決勝で高校3年間の最速が出て、これはもう決勝も勝てるなといった思いがありました。そもそも県大会で勝つことをあまり考えておらず、いかに甲子園で勝つかだけを考えていました。それが最後の最後に隙を生んだのだと思います」

 決勝の相手は四日市工。ちょうど1年前の三重海星高校のように、2年生が主体となったチームで、「県内では一番僕らをライバル視していたのが彼らだったと思います」と岡本さん。
試合は序盤から海星高校がリードを奪い、岡本さんも無失点投球を続ける。3対0で試合は最終回を迎えたが、大きな落とし穴が待っていた。

「最終回に急に連打され始め、また守備のミスも重なり3対4でサヨナラ負けしました。
その試合はあまり調子が良くなくスライダーを多く投げていたのですが、試合の中で、そのスライダーを狙い打ちされる場面が何度かありました。しかし配球を変えることなく、スライダーを投げ続けた結果、最終回に連打を浴びてしまった。僕は、相手の狙いに気付いていなかったのです。

 9回のマウンドに上がる時には、優勝した瞬間はどんなガッツポーズをしようかなとか考えていました。要するに隙だらけだったんです」

 負けて初めて気付いた慢心。岡本さんは現役の高校球児にも、目の前の相手を倒すことだけを考え、足下を見つめて戦ってほしいと思いを口にする。

「足をすくわれる時は、やっぱり気持ちの中に隙があると思います。今振り返っても、まずは先頭バッターを打ち取ることに全力を注げば良かったと思いますし、当時の自分は甘かったなと感じます。高校球児のみなさんも、それを忘れずに頑張ってほしいですね」

[page_break:明治大学硬式野球部へ入部。整然とした上下関係の中で人間形]

明治大学硬式野球部へ入部。整然とした上下関係の中で人間形

 高校卒業後、明治大学を経て2003年に西武ライオンズに入団し、13年間のプロ野球生活を送った岡本さんだが、2016年限りで現役を引退すると、2018年9月からは外国人紹介事業を立ち上げて経営者として活躍し始める。

 企業で働いた経験がなかったにも関わらず、手探りの中で事業を軌道に乗せた手腕は見事だが、その土台は大学野球、プロ野球選手時代に培われたと断言する。

 夏の三重大会の決勝で敗れて高校野球を引退した岡本さんは、プロ野球のスカウトからも注目されたが、両親の願いもあり大学進学を決断。最終的な目標をプロ野球選手に定めて明治大学への入学を決めたが、ここでは整然とした上下関係の中で人間形成ができたと語る。

「上下関係は高校よりも大学の方が厳しいので、先輩に対しての言葉づかいや部内のルール、もちろん厳しい練習もある中で忍耐力を培うことができました。

 とはいえ、明治大学は先輩の洗濯を後輩が行うなどの理不尽な上下関係はなく、汚い場所の掃除は最上級生が行うなど、健全な人間形成の場でした。その中で僕も、人間的に成長できたと感じています」

 プレーヤーとしても、1年春から抑えとして獅子奮迅の活躍を見せて、4年間ではリーグ戦通算48試合登板、12勝8敗、防御率2.41の成績を残した。即戦力投手としてプロ野球のスカウトから注目を浴びた岡本さんは、西武ライオンズにドラフト6巡目で指名を受けてプロ入りを果たした。

 高校時代に立てた、「プロ野球選手になる」目標を見事叶えた岡本さん。西武ライオンズでも、ルーキーイヤーから10試合に登板するなど大きな期待を受けていたが、中継ぎの柱として活躍を見せるまでには7年の歳月を要してしまった。

 ブレイクするまでの7年間の経験も、現在に大きくつながっていると口にする。

「自分は人に流されやすい性格で、それがプロ世界では大きく足を引っ張りました。ぬるま湯にどっぷり浸かってしまい、入団して3、4年は契約してくれるだろうと甘い考えを持っていました。プロ野球選手として野球でお金をもらう感覚がそもそも備わっておらず、学生野球の延長上でプレーしていたように感じます。

 もう少し1軍の選手たちの意見を積極的に聞きに行くべきでしたが、2軍の選手と仲良くしている方が楽なんですよね。自分の人としての弱さがモロに出たなと思います」

 1軍と2軍の行き来を繰り返し、1軍では登板する度に打ち込まれる。そのうち毎年秋頃になると、戦力外になるのではないかと不安に駆られるようになり、焦りと逃げたい気持ちがくすぶっていた。

[page_break:7年目に遂にブレイク。満身創痍の中で球団に恩返し]

7年目に遂にブレイク。満身創痍の中で球団に恩返し

 転機となったのはプロ6年目の2009年、股関節の疲労骨折が判明した時だ。

 投球動作が恐怖に感じるほどの痛みに悩まされたが、岡本さんには時間がない。焦りから痛みをおして練習を続けていたが、見かねた当時のトレーニングコーチが、治療に専念できるように球団に掛け合ったのだ。

「球団の編成担当に呼ばれて、来年の契約はするからとりあえず今年1年間は休みなさいと言っていただきました。ずっと鳴かず飛ばずで、クビになってもおかしくない選手に契約すると言っていただき、ここで自分が変わらないと今までの野球人生すら否定することになると思いました。人間的にも一段階大人になれましたし、野球選手としても考え方がガラリと変わりましたね」

 結果で球団に恩返ししたい一心で、2009年のシーズンは治療に専念して復活を目指した岡本さん。これまでは他の選手が練習を切り上げ始めると、岡本さんも一緒に練習を終わっていたが、周りに合わせることなく黙々とリハビリとトレーニングに打ち込む日々。野球への取り組む姿勢が明らかに変化した。

 実践に復帰した翌2010年は開幕から2軍で好投を続け、7月に1軍へ昇格すると自身6年ぶりの1軍戦勝利を挙げる。

 以降はリリーフの一角として首脳陣の信頼を掴み、プロ野球生活最多の33登板を記録。その後も登板数を増やしていき、2012年にはプロ生活最多の59登板を果たした。

「疲労骨折だったので2010年以降も完全に治ったわけではなく、80%治ったぐらいの感覚でした。登板数が増えていくと、どうしても投げる度に股関節には痛みが出てしまいますし、飛行機に乗る時も気圧の関係からか痛みが出るほどでした。

 とはいえ、もう年齢も30歳を越えていたので休む選択肢はなく、上手く付き合いながら投げ続けていました」

 球団への恩を返すために、心を入れ替え戦線に復帰し、そして見事ブレイクを果たした岡本さん。この経験を経て、現役の高校球児にも目の前の練習に対して全力で向かってほしいと強く語る。

「多くのチームは、基本的にはメニューが決められていると思いますが、ありきたりですがとにかく一生懸命に手を抜かず取り組んでほしいです。人間は失敗を経験しないとわからない弱さを持っていますが、学生野球は期間に限りがあります。

 例えば大学野球でよくいるのが、卒業後も社会人で野球を続けたいけどなかなか試合で結果が出ない、なかなか進路が見つからない選手です。でも実際、そういった選手のほとんどが大学4年間を真剣に練習に取り組んでいなかった選手で、3年生になって進路を考え始めた時に『やっぱり野球がやりたい』と言い出すんですよ。その多くは時すでに遅しで、その事実に1、2年生の時から気付ける自分であってほしいです」

[page_break:ミャンマーとの出会い。活躍できる道筋を作ってあげたい]

ミャンマーとの出会い。活躍できる道筋を作ってあげたい

 満身創痍の中で登板を続けた岡本さんだったが、2015年に肘の手術により戦線を離脱。術後の経過も芳しくなく、また年齢も35歳とベテランの域に達していたことから、現役続行は難しいと判断し、2016年のシーズン限りで岡本さんはユニホームを脱ぐことを決断した。

 引退セレモニーでは胴上げされ、万感の思いで現役生活に別れを告げたが、いざ野球がなくなると自分がどの道に進むべきか、いきなり大きな岐路に立たされた。

 社会人としてはアルバイト経験すらなかったが、サラリーマンになることは選択肢になかった。起業に興味はあったが、その大変さも当時は理解しておらず、志す事業も特にない。その中で岡本さんが一番最初に行ったのは、プロ野球選手時代に付き合いのあった経営者たちに会いに行くことだった。

「食事などに行くことはありましたが、実際にその人たちがどんな仕事をしてるのか詳しく聞いたことはなかったのです。仕事の話を聞きたいと思って昼にアポイントを取り、会いに行ってどんな事業をやっているのか、自分ができそうなものはないか探るため、質問をぶつけました」

 経営者たちの話を聞く中で、たどり着いたのが人材業だった。初期投資が少なく、借り入れをせずに自己資金のみで事業の立ち上げができる点が決め手となった。

 そして同じタイミングで、ミャンマーとの出会いもある。

 養鶏場を営む友人の誘いで、興味本位でミャンマーに訪れた岡本さん。そこで生きる環境の違いに驚かされた。

「友人はミャンマーに養鶏場を作る目的がありましたが、私は当初はビジネスがしたかったわけではなく、東南アジアの国々に野球を広げたいという思いの方が強くありました。まずはボランティアとして孤児院を回って靴をプレゼントし、その中で野球を教える活動から始めました。

 ただその中で、栄養失調で亡くなる子も多くいるなど、経済的に困窮するミャンマーの厳しい側面も見えてきます。スポーツによるヘルスケアも非常に大事ですが、まずは国民がしっかりとした稼ぎを得ることが非常に大事だと感じ、日本で働く場を提供する人材紹介業と結びつきました」

 事業を本格的に進める中で、日本との親和性が非常に高い国であるとわかってくる。日本への憧れを持っている国民は多く、日本語学校の数も非常に多い。また多くの国民が仏教を信仰しており、宗教的背景から見ても日本の環境に馴染みやすいと感じた。

 その中でも特に、ミャンマーの人々は日本で働く上で必要な人間形成がなされている、そう岡本さんが感じたのは、小学校の教育だった。

「小学校では先生がよく怒鳴っており、私の少年時代を思い起こさせるものがありました。私の時代も小学校時代の教育がすごく厳しく、その後も高校野球、大学野球と厳しい上下関係の中で、ストレス耐性を養うことができたと思っています。ミャンマーの小学校の教育からも、同じものを感じたのです。

 社会が求める人材もやはりストレス耐性が強い人です。キツい仕事でもへこたれない精神力や、目標に対して粘り強く仕事ができる人を育てる環境があるなと感じ、この子たちが日本に来て活躍できる道筋を作ってあげたいと思いました」

[page_break:人材業が楽しいと思ったことは一度もない]

人材業が楽しいと思ったことは一度もない

 ミャンマーの人材に惹かれた岡本さんは、日本企業へのエンジニア紹介事業を行うことを決める。だが実際に経営がスタートすると、海外人材ならではの苦労も多くあった。

 まず最初にぶつかったのが言葉の壁だ。

「やっぱり日本で働くためには、最低限の日本語が聴解、読解できないといけません。日本の企業だと、資格を持っていると話がスムーズに進むのですが、日本語能力試験の一番良いとされている資格が『N1』です。

 ですが日本人が『TOEIC』の点数を持っているのと同じように、資格を持っているからといって日常会話がすべてスムーズにできるわけではありません。試験内容は文法をもとに答える問題なので、日本人でもわからない問題が結構あるんですよ。

 履歴書に資格を書いて損することはないので、書いておきましょうとは言っていますが、言語力のマッチングは今でも難しいなと感じています」

 またミャンマーの人材に限らず、人材紹介業は入社後に問題が起こるケースも多くある。

 ある時、企業に紹介した女性の人材から、入社から約半年後にクレームの連絡が入った。健康保険に加入させてもらえず、酷い会社を紹介された。もうこんな会社は辞めます、というのが彼女の言い分だった。

 だが、彼女の言い分だけを鵜呑みにするわけにもいかず、急いで紹介先の会社に問い合わせたところ、自身で加入するか会社で加入するか選択制を採用しているとの回答だった。双方の言い分に食い違いがあり、さらに話を聞いていくと、彼女自身が健康保険の加入を拒否していた事実が発覚する。

「そしてそれだけに留まらず、彼女の悪いところばかり出てくるんですよ。勤怠の態度も芳しくなく、お客さんの電話にも対応しない。辞めてもらってむしろ良かったと紹介先の会社の方に言われ、私は『申し訳ありませんでした』と謝罪をしました。

 それを本人に伝えても無視するばかり。人を見極める難しさを痛感しました。人材業はこうした苦労は多い業界だと思います」

 日々の業務は困難の連続だ。

 岡本さんは「人材業が楽しいと思ったことは今まで一度もない」と本音を語り、生活のために今できることを精一杯やっているだけであると心境を口にする。

「僕の場合、人生の半分近くが野球で、それ以上に好きなことは見つからないと思いました。でも稼ぎたい気持ちは持っているし、家族も養っていかないといけない。その中で、今自分にできることはなんだろうと考え、たまたま今の仕事にたどり着いただけです。自分の願いを叶えるだけの貯金があれば、今の仕事はしないと思います。

 でもだからこそ、稼ぎたいのであればやるしかないという感覚で、業務に対するストレスはほとんどありません。そこはプロ野球での経験から身に付けた考え方で、稼ぎたいでのあれば嫌なんて言っていられません」

 ちなみに株式会社L.M.Kの由来は、ライオンズ、明治大、海星とこれまでの野球での所属先の頭文字を取ったものだ。

 野球での経験を活かして、経営者として常に現実を見つめる岡本さん。現在の高校球児に対しても、感情や感覚でものごとを考えるのではなく、現実を見つめながら野球に打ち込んでほしいと口にする。

「人間に平等に与えられているものは時間です。1日24時間、さらに高校は3年間の限られた時間の中で、生かすも殺すも自分次第です。時間を活かせる人間が何事も成功を掴むと思っています。

 いかに有効に時間を使って、PDCA(Plan・Do・Check・Action)を回せるか、それが社会に出た時にも必ず活きるので、まずは目の前の3年間を全力で頑張ってほしいですね」

 振り返ると、人間的な拙さから後悔ばかりだった野球生活。

 弱さを認め、乗り越えたからこそ今がある岡本さんから、多くのことを学べるのではないだろうか。

(取材:栗崎 祐太朗

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この記事の執筆者: 高校野球ドットコム編集部

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