目次

[1]県内では注目される存在だった中学時代
[2]守備力が大きな課題に。憂鬱だった冬場の猛特訓
[3]憧れの海星高校へ進学。1年秋にはエースナンバーを掴む
[4]「使命」だった甲子園出場。3年春には選抜ベスト8進出
[5]負けて初めて気付いた慢心。足下をすくわれる時は隙がある
[6]明治大学硬式野球部へ入部。整然とした上下関係の中で人間形成
[7]7年目に遂にブレイク。満身創痍の中で球団に恩返し
[8]ミャンマーとの出会い。活躍できる道筋を作ってあげたい

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 埼玉西武ライオンズのブルペンを支えた鉄腕は今、経営者として日本と東南アジアの架け橋になっている。

 海外人材を日本企業へ紹介する株式会社L.M.K。代表取締役を務めるのが岡本篤志さんだ。
岡本さんは、2003年に明治大学からドラフト6巡目で西武ライオンズに入団し、13年間の現役生活を送った。2016年限りで現役を引退すると、2018年9月からは外国人紹介事業を立ち上げ、ミャンマーを中心に東南アジアの人材を日本企業へ紹介している。

 そんな岡本さんは1981年生まれ。三重県の海星高校出身で、高校時代は甲子園に2度出場。3年生時には最速145キロ右腕として注目され、プロ野球選手としての土台を作った。だが経営者となった現在は、「ビジネスマンにも通ずるものが多くある」とも振り返る。

 高校野球での経験は、現在の岡本さんにどのような影響を与えたのだろうか。

県内では注目される存在だった中学時代



三重・海星OB 岡本篤志さん

 大阪生まれの岡本さんは6歳年上の兄の影響もあり、物心ついた頃にはすでに野球ボールに触れていた。両親によれば、おもちゃで遊ぶよりも野球ボールで遊ぶことの方が多かったという。

 小学校3年生になると地域の少年野球チームに入団し、練習がない日も放課後には決まって野球。中学生となった兄の姿からも影響を受けながら、少年時代を過ごした。

「当時は5、6年生のチームと、それ以下のチームと分かれて試合などを行っていましたが、自分は3年生の時にはすでに上級生に混じってプレーさせていただきました。ずっとショートを守っていましたが、僕はずっとピッチャーをやりたいと思っていて、最初は嫌々ショートのポジションについていましたね」

 5年生時に三重県へ転居して所属チームは変わったが、ポジションはショートのまま。兼任でマウンドに立つことはあったが、本格的に投手のキャリアを進みはじめたのは中学生となってからだった。

 地域に硬式野球チームがなかったため、中学校の軟式野球部に入部した岡本さん。

 小学校時代のチームメイトの多くが、軟式野球部に入部するといったことも大きく影響した。中学校の軟式野球部としては練習はハードだったが、気心知れた仲間たちと野球ができることに楽しさを感じていた。

 夏に3年生の先輩たちが引退すると、新チームでは1年生ながら主戦としてマウンドに立つようになる。2年生の夏には絶対的エースの立場を確立し、三重県内では注目される存在となっていた。

「自分で言うのもなんですが、一応三重県の中では球が速い方だったので、多少は名前が通っていて、相手もそれなりに警戒する投手だったと思います。ただチームとしての実績はなくて、だいたい県大会の初戦で僅差で負けていました。プレッシャーに弱かったのか、急に打てなくなったんですよね」