目次

[1]一発逆転のある野球に魅力された少年時代
[2]守備力が大きな課題に。憂鬱だった冬場の猛特訓
[3]3度の甲子園経験が生んだ3年夏のスーパープレー
[4]高校野球を通して培った人心掌握術
[5]「理不尽を正面から受けてしまった」1年足らずで大学を中退
[6]きっかけは高校時代。福祉の道を志しヤマハを退職
[7]取材を通して福祉のことを少しでも発信していきたい
[8]元横浜高主将とタッグ。野球を通じて出会う仲間は大きなもの

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 常葉菊川の二塁手として圧倒的な守備力を武器に活躍し、甲子園優勝1度、準優勝1度にベスト4も1度経験したのが株式会社Greeの町田 友潤社長だ。2008年の第90回全国高等学校野球選手権大会では、「セカンドに打ってしまえば望みはない」とまで称され、町田さんの卓越した守備には誰もが釘付けになり、今なお甲子園の名場面として語り継がれている。

 現在は経営者として障害児支援に力を注いでおり、放課後等デイサービスや児童発達支援施設と計4つの事業所を展開している。

 「野球をやってきたこと、甲子園に出場したことがいろいろなところで活きている」と笑顔で語る町田さん。

 甲子園のスターが福祉の道に進むことになったきっかけ、また野球に打ち込んだ経験が経営者である現在にどのように活かされているのだろうか。

一発逆転のある野球に魅力された少年時代



町田 友潤さん

 静岡県沼津市出身、1990年生まれの町田さん。

 二歳年上の兄の影響で、小学校2年生からソフトボールを始めるが、実は小学校1年生からサッカーチームにも所属しており、二つのスポーツを掛け持ちする少年時代だった。
 それでも好きだったのはやはり野球。ソフトボールチームでの練習や、平日に友人と空き地でやる野球の方に楽しみを感じていた。

「サッカーは一発逆転がないじゃないですか。自分は一発逆転のある野球やソフトボールに魅力を感じて、いつも練習や試合が楽しかった記憶があります。練習は、ソフトボールもサッカーも週末に半日の練習しかやらないので、午前中がソフトボールで、家に帰って午後からサッカー。

 平日はチームとしての練習はなかったので、みんなで近くの空き地に集まって野球ばかりやっていました。サッカーは体力を付けることができればいいくらいの感じで、重きを置いてたのはソフトボールチームでの練習でしたね」

 チームは決して強くはなかったが、町田さん自身は6年生時に沼津市の選抜チームに選ばれ、ハイレベルな環境にも身を置いた。周りの選手たちから大きな刺激を受け、そのほとんどが中学ではリトルシニアやボーイズリーグといった硬式野球チームに入団を考えていたことから、町田さんも地元の硬式野球チームに入団することを決断する。

 そして中学生となり、入団したチームが三島リトルシニア。2学年上には元西武ライオンズの髙橋 朋己氏が在籍した強豪だ。ここでは3年生が引退した後の1年生の秋から、主力選手として試合に出場するようになった。

「2学年上の先輩方はとても強いチームでした。髙橋 朋己さんは中学時代はメンバー外の選手でしたが、大学、社会人と徐々に才能を開花されていったのだと思います。
 僕自身も、1年の秋からショートを守らせていただきましたが、当時は守備にも全然自信がなかったですね。どちらかと言えばバッティングの方に自信があって、1番打者を任せていただいていました」