[1]甲子園出場を目指して京都成章に進学
[2]甲子園出場のために文武両道に励む
[3]甲子園初出場も初戦でまさかの大敗
[4]危ない試合をモノにできるチームが夏に勝つ
[5]悲願の甲子園1勝。その後も破竹の快進撃
[6]高校野球が今にいきているのは「忍耐力」
[7]映画「ザ・エージェント」の影響からスポーツマネジメントの世界へ
[8]上原浩治さんの一言で独立。トップ選手からの刺激も糧に進む
甲子園出場のために文武両道に励む

取材中の澤井芳信さん(京都成章OB)
京都成章での高校生活をスタートさせた澤井さんだったが、野球と勉学の両立は想像以上に大変だった。
当時の奥本保昭監督は、練習以上に生活態度と成績を重視しており、赤点を取ると練習にも参加させてもらえず、また授業中に居眠りをすれば担当の教員から報告が入る。特に1年時は奥本監督がクラスの担任も務めており、グラウンドでも校舎内でも気の抜けない日々が続いた。
「でもやっぱり寝てしまうんですよ。その度に怒られていましたし、それで僕はバレないように首を直角にして、ノートを取っているように見せかけて寝るという技を身に付けたりしました。
そしてまた練習もきつかったんです。練習は本当にどこよりもやった自信があります。
本来であれば、帰りは20時17分のバスに乗って最寄り駅に向かうのですが、時間に縛られて練習したくないので、僕らは駅から学校まで30分くらいかけて自転車で通学していました。学校まではずっと登り坂なので、本当にきつかった記憶があります」
当時はまだ、夜遅くまで照明をつけてナイター練習をしても許される時代だった。全体練習が終わった後も、澤井さんをはじめ、選手たちは黙々と練習に打ち込み、21時前にようやくグラウンドを後にする。
帰宅すると時計は22時を回っているが、それから勉強もしなければならない。特に大会期間中は、試験一週間前でも練習は行われ、眠い目をこすって勉強に打ち込んだ。
「試験一週間前は、帰ってご飯を食べて風呂に入って、一回寝るんです。その後、夜中3時ぐらいに起きて勉強していました。眠らないと内容が頭に入ってこないので。そうやって試験勉強を乗り切っていました。もちろん夏の大会の期間中も試験は行われるので、早く試験終われと思いながら勉強をしていました」
厳しい練習と苦しい勉強に耐えることができたのは、やはり甲子園に行きたかったから、と振り返る。勉強を疎かにしていては、野球に打ち込むことができず、結果として甲子園からも遠ざかってしまう。
「甲子園のために勉強をしていました」。澤井さんはそう言い切る。
「勉強が大事だということは頭では理解していましたが、やっぱり甲子園に行きたいから勉強するという気持ちが根底にはありました。練習が休みの日も無駄にしたくないので、ゆっくり休むことなくグラウンドで自主練習をして、その後に勉強もしっかりする生活を送っていました」
学業との両立を徹底して求められる厳しい環境の中でも、甲子園を目指して無我夢中で練習に打ち込んだ澤井さん。その思いは、最上級生となった時に花開くのであった。