目次

[1]王貞治さんに憧れ早稲田実業を志す
[2]「教えない教え」の中で野球に打ち込んだ高校時代
[3]「正しい査定」により1年で監督を解任に
[4]傾聴、共感、否定せず最後まで聴く改善で社内でも存在感
[5]再建を託されFC東京の社長に 風土を一新した「自立」の精神
[6]「パスをつなぎ倒させてください」下位低迷からの快進撃

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 早稲田実業の和泉実監督、桐光学園の野呂雅之監督と高校球界を代表する名将と同じ高校時代を過ごしたのが、東京ガスケミカル株式会社の阿久根謙司常務だ。

 阿久根さんは、早稲田実業、早稲田大、東京ガスと俊足の外野手として野球を続け、その後社業に専念した後もプロサッカークラブのFC東京で社長を4年間務めるなど、ビジネスマンとしても実績を残して、現在もグループ会社の東京ガスケミカル株式会社で辣腕を奮っている。

 そんな阿久根さんは言う。
 ビジネスマンとしての土台を築いたのは、早稲田実業野球部での3年間であると。

 阿久根さんの高校野球、ビジネスマンとしての活躍を語る上でキーワードとなるのは「自立」だ。その背景や核心、そして現役の高校球児へ伝えたい思いに迫っていく。

王貞治さんに憧れ早稲田実業を志す


 埼玉県所沢市出身、1961年生まれの阿久根さん。
 その頃は、子どもは野球をやるのが当たり前の時代。小学校1年生から野球チームに入団する友人も多い中で、阿久根さんがチームに入団したのは4年生と、当時としては少し遅めだった。

 「それまで何をしていたかと言うと、日曜日になるとよく友達と公園で遊んでいて、遊びに行く前には親父が100円をくれるんですよ。文房具屋兼おもちゃ屋みたいなお店が学校の前にあって、その100円をいかにして上手く使うかワクワクしながら考えて、お菓子やアイスを買ったり、時にはお店のおじちゃんがおまけをしてくれたり、そしてそれを秘密基地で食べたり、色んな事をして遊びましたね」

 その後、友人に誘われたことがきっかけで小学校4年時から所沢リトルで野球を始めた阿久根さんだが、かと言って生活が野球一色だった訳でもない。

 父親との約束で毎朝6時にランニングを行っていたが、途中で歩いて近くの焼却炉にガラクタを探しに行くこともしばしば。学校ではお楽しみ会(学芸会)での演劇のシナリオつくりやプロデューサー役として友達と日々楽しんでいた。

 「ポジションは外野で、センターを守っていました。上手な子はピッチャーやキャッチャー・内野手などに指名されましたが、下手だから外野に回されたのだと思います。外野でも最初はよく“バンザイ”していました。
 でも野球も勉強も嫌だと思ったことは全く無く、早稲田実業は王貞治さんが出た高校だということは知っていたので、そんな場所で野球がやりたいといった気持ちが強くありました。当時は巨人のV9の時代なので、もう憧れですよね。後楽園球場にもたまに連れて行ってもらいましたが、行く度にワクワクでした。
 勉強の方はそこそこ点数は取れていましたが、ちゃんと塾に行って受験勉強をしている人もたくさんいたので、今思えばそれでよく早実に合格できたと思っています」

 その後、無事に早稲田実業中等部に合格し、在学時は学校の軟式野球部と硬式野球チームの所沢シニアを掛け持ちして野球に打ち込んだ。テレビ画面の中の甲子園で躍動する、早稲田実業のユニフォームに大きな憧れを抱いて、毎日夢中で白球を追いかけた。