メジャーリーグのトレーナーも経験。相洋で培った精神力、判断力、決断力が経営者としての自分を成長させる 株式会社ルートヴィガー深澤英之社長(相洋高校出身)
身体の疲労や異変があれば病院に行くだろう。または整骨院に通院して解消する人もいるはずだ。日本全国にはいくつもある整骨院があると思うが、その中でも輝き放つ会社が、東京都港区にあるルートヴィガーだ。
大学スポーツはもちろん、プロスポーツ選手。さらには俳優やメジャーなど日本にとどまらず、あらゆるジャンルで実績を上げる。そこで代表を務める深澤英之さん自身も、相洋高校で高校野球を3年間プレーした野球人である。
プロ野球の世界でもトレーナーとして仕事をした経験を持つ深澤さんが現在に至るまでにどのような道のりを歩んできたのか。お話を聞かせてもらった。
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【一覧】人生で大切なことは高校野球から教わった
野球引退の宣告を受けても続けた生粋の野球人
深澤さんが野球を始めたのは、小学3年生から。地元・茅ケ崎にできたスポーツ少年団で野球チームができること、そして友達が始めたきっかけで、野球の世界に飛び込んだ。最初は分からないところからのスタートだったが、少しずつ野球の楽しさを感じ始め、気付けば、野球に没頭する毎日を送っていた。
しかし、中学校に入学する直前、深澤さんは大きなけがをすることになる。
「入学する前に父とキャッチボールをしていた時なんですが、その時に『ぽき』っと音が聞こえたんです。すると肘がしびれて、曲げ伸ばしができないんです。ボールも握ることができなくて『なんでだろう』と全然わからなかったです」
その日の食事で箸も握れないことで父からも「おかしいのか」と言われ、翌日病院で診察を受ける。そこで診断されたのは遊離軟骨。先生からは「野球をやめなさい」と通告を受けた。
「当時は少年野球でも変化球が投げられたので、僕はスライダーを投げていたんです。ただ投げる時に手先だけで曲げようとしていたので、それが原因でダメになったと思います」
しかし当時の深澤さんはすでに野球に没頭をしており、辞めることはできなかった。その後、内野手へ転向して野球を継続。湿布やサポーターなどを使いながら3年間を駆け抜け、3年生の時には県大会ベスト4に行く成績を残した。だが肘は治っていないため、投げるたびに痛みを生じることもあった。
それでも、「相手に関係なく、勝ちたいの一心」でプレーを続けた。そして深澤さんは高校野球の舞台へ上がっていくことになる。
地道に続けていくことを学んだ相洋の3年間
トレーニング器具の使い方を解説する深澤英之さん
小学、中学時代に確かな実績を残してきた深澤さんだが、進学先に選んだのは神奈川県の中堅校となる相洋高校。その理由にははっきりとした目的があった。
「将来は体育の先生として高校野球の監督をやりたいと思っていました。そのために体育学部のある大学へ進学したかったのですが、相洋から日体大へ進学される方が多かったんです。ですので、将来の夢が叶いやすい相洋へ道を決めました」
高校時代の毎日は過酷で、授業が終わると、山を2つ超えた先にあるグラウンドへ走って移動して練習。グラウンドでの練習が終わると、また学校まで走って戻り、学校で22時半まで練習をして終了。家に戻るのが11時半で、就寝は12時を超える。そして始発に乗って学校に行くため睡眠時間はわずか4時間と厳しい環境だった。
そんな相洋での3年間を深澤さんはこのように振り返る。
「中学では楽しく野球をやっていましたが、高校からは1日のルーティーンをこなす。乗り切ることを考えて過ごしていました」
3年間はしんどくきついものだったが、それでも忘れられないことがあった。
「守備が下手で、サードを守っていた時は特に三塁線の打球の処理が上手くいかなくて。そこで監督が1日1000本以上ノックを打ってもらいまして、どれくらい続いたか覚えていないですが、おかげ試合でもできるようになって自信になりました」
こういった毎日少しずつでも積み重ねていくことで、出来なかったことも出来るようになる。地道に続けることの大事さを学ぶことができたのが、相洋での高校野球3年間だった。
最後の夏は4回戦で日大藤沢の前に敗れ、甲子園へ出場することはできなかった深澤さん。しかし3年間で多くのことを学び、大学への進学の時期がやってきたが相洋入学当初の道はブレていなかった。
「変わらず体育学部へ行きたかったので、谷先生にも『体育学部のある学校に行って、体育の先生になりたいです』と話をしました。ただ、谷先生からは大学野球を進められまして、『大学野球を経験することも大事だろう』と思ってやることを決心しました」
深澤さんは、最終的には、谷先生から勧められた城西大のセレクションを受け、同校に進学することを決めた。深澤さんの大学生活が幕を開けた。
[page_break:トレーナー・深澤英之誕生への道のり]トレーナー・深澤英之誕生への道のり
笑顔で従業員の方とコミュニケーションを取っている深澤英之さん
大学に進学した深澤さん。チームは当時2部リーグにおり、1部昇格のために実力のある同級生が集まり、深澤さんをはじめとした1年生が多く出場。深澤さんも1年生の春からリーグ戦デビューをすることができた。その後もチームの主力選手として活躍し続け、3年生の秋に念願の1部リーグ昇格。そして4年生の時はチームの主将として牽引するなど、4年間野球に没頭する日々だった。
一方、夢の高校の先生となるために教職は、部活動の兼ね合いで講義に参加できず。目標の教員への道は「通信教育でカリキュラムを消化できれば」と割り切って城西大で4年間を過ごした。城西大を卒業後、今度こそ教員への第一歩を目指すはずだったが、ここで深澤さんがトレーナーを目指す転機がやってきた。
「社会人で野球をすることを勧められまして、練習にも参加しました。ただ、『ここで引退したら次の仕事は何なのか』と思ったんです。26歳ごろに引退して教職をとっても30歳を過ぎる。それは少し遅いかなと」
野球好きは変わらず、野球に携わる仕事をしたいと考えていたところに「トレーナーを目指せばいいじゃないか」と父の知り合いからアドバイスをもらった。当時、深澤さんは「いろんなことを幅広く仕事でできるのは面白そうだな」と感じ、専門学校へ進学することになる。
学校の授業費を稼ぐために日中は営業マンとして働き、夜間は専門学校で勉強。また、土日は野球部のコーチとして忙しい日々を2年間過ごした。そして深澤さんは鍼灸の資格を取得すると、母校野球部と城西大の女子駅伝部でトレーナーとして仕事をスタートさせた。
8年間、母校のトレーナーとして携わってきたが、ある時に深澤さんは不安がよぎった。
「普通であればどこかで経験を積んでから仕事を始めますが、個人でずっと動いてきましたので、『これで正しいのか』と不安も沢山あったんです」
そこで深澤さんは知り合いを探し、プロのトレーナーの話を聞けるチャンスを掴んだ。第一線で活躍するトレーナーの話から多くのことを学び、経験と自信をつけた深澤さんはたまたま欠員が出たヤクルトにトレーナーとして加わることとなる。
1994年シーズンからプロの第一線でトレーナーとして活躍する深澤さん。最初は2軍の担当だったが、1997年には1軍トレーナーへ担当が変わった。すると、当時ヤクルトはメジャーのインディアンスと業務提携を結んでいたため、メジャーのトレーナーたちと一緒に仕事をする機会が訪れた。
当時のことを深澤さんはこのように語る。
「日本人はメディカルの方面は得意でしたので、治療や回復であれば優秀でした。ですので、メジャーでも需要はあることに気づくことができました」
すると深澤さんのところに再び転機が訪れる。当時ヤクルトにいた石井一久氏がメジャーへ挑戦するタイミングで、石井氏から「ついてきてほしい」とオファーをもらった。ただ、深澤さんは石井氏に、「チーム全体のトレーナーとしても働いてみたい」とお願いを伝えた。
石井氏はドジャースへ入団が決まると、球団へ深澤さんのことを相談。その後、インターンからのスタートだったが、チームに加入することができた。
「入ればなんとかなる、入ることがまずは大事だと思ったんです。だからインターンでも行けば何とかなると思っていました」
志を高くもって高校野球3年間を過ごしてほしい
インターンからスタートとなった深澤さんだが、これまで培ってきた経験が評価され、わずか3日で契約をつかみ取ることに成功。深澤さんはメジャーで3年間トレーナーとして仕事をすることとなる。
そして2006年、アメリカから日本へ帰国した深澤さんは現在代表を務めるルートヴィガーを立ち上げる。主に、治療やリハビリをする整骨院やマッサージ、そして体幹を中心にメニューを組むトレーニングの3つを1つのセットとして接客をしている。しかし、立ち上げ当初は治療やマッサージだけで、トレーニングまで受けてくれる人は少なかったことを深澤さんは語る。
「8割、9割のお客様がマッサージで楽にしてほしい人たちばかりでしたが、本当に体を強くするのは治療だけではなく、鍛えながら整えることです。それが自分の信念でした」
それでも深澤さんは地道に患者さんたちにトレーニングの重要性まで伝え続けた。相洋時代に谷先生に自分がしてもらったノックのように、続けていけば変わることを信じて。
現在は少しずつ患者さんにもトレーニングの重要性が伝わってきていることを感じている。
「プロ野球選手は年間140試合戦っても、毎日元気です。それはアスリートで体が強いからではなく、体操やストレッチ。さらには食事に睡眠時間、水分補給まで、トレーニングとして考えているからこそ年間通じて戦える体が作れる。それを一般の人にも提供ができれば皆、元気でいられると思うんです」
人生という道のりを元気で駆け抜けるために、治療とマッサージ。そしてトレーニングの3つ全てを取り扱えるようにしている。ルート=道のり、ヴィガー=元気という意味が会社にあるが、それを体現するために、治療とマッサージとトレーニングの3つの要素が必要だと深澤さんは考えている。
そんな深澤さんは、トレーナー・施術者としてだけでなく、経営者としても活躍しているが、高校野球で学んできたことが活かされているか問うと、それは、「仲間意識」だという答えが返ってきた。
「チーム全体で動くことは会社経営に繋がっています。経営者は監督と同じで、チーム全員が同じ目標に向かっていますが、個性を最大限生かせるようにしないといけません。個性を見抜くことは経営者として大切ですし、環境が変わっても柔軟に対応できることも必要だと思います」
また、経営者にとって大切な判断力や決断力も、高校野球から学んだ。
「試合展開によってどんなプレーが最適なのか。その時どうするべきかという判断や、決断する速さは、高校野球を通じて磨かれました。それは、経営者としての仕事にも結びついています」
もちろん、相洋での厳しい3年間をやり切ったプライドや、精神力の強さも、今の経営者としての仕事に結びついている。そんな深澤さんに、現在の高校球児たちが、将来「経営者」を目指す上で、高校野球生活をどのように過ごせばいいのかアドバイスをもらった。
「幅を持って考えることが大事だと思います。高いレベルで物事を考えられれば、おのずとプレーのレベルも上がると思うんです。自分自身、高校時代にそれができていたらもっと上手くなったと思います。今の高校球児たちも、志を高くもってプレーをすれば伸びると思いますし、社会に出ても活躍ができると思います。また、高校野球では、役割がある仲間がいて、組織として活動をする。そこが高校野球の魅力ですが、会社の経営も同じだと思います。高校野球を頑張っている人は、それだけで才能や能力が身につき始めているので、野球で培ったことを活かして経営することの楽しさを味わってほしいです」
インタビュー中、終始笑顔を見せてくれた深澤さん。今がとても充実していることがすぐにわかったが、現在に至るまでには地道な努力があった。これからも多くの患者さんと接していく深澤さんは、変わらず強い信念をもって向き合っていくだろう。
(取材/田中 裕毅)
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