西川世一社長×大藤敏行監督(元中京大中京)が語る、野球が教えてくれたこと【後編】
株式会社ESSPRIDEの代表取締役を務める西川世一社長。落ち着きある佇まいとがっちりした体格がどのようにして育まれたのかをたどると、高校時代中京大中京でプレーしていた。
腰の怪我を抱えながら3年間を駆け抜けた西川社長は、卒業後、経理やデザインの学校など、様々なところを渡り歩きノウハウを吸収。そして2009年に株式会社エスプライドを立ち上げ現在に至る。
そんな西川社長の人生の恩師、中京大中京時代の大藤敏行監督に会いに行くため、母校・中京大中京から車で50分ほど移動し、享栄高校のグラウンドへ向かった。
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【一覧】人生で大切なことは高校野球から教わった
怪我がありながらも人間性が認められ、最後まで試合で起用された
市街地から離れた閑散とした場所で日が沈みきりあたりが暗い中、照明をつけて練習が行われている享栄高校のグラウンド。そのグラウンドのバックネット裏に建てられている建物の中に、西川社長の恩師・大藤監督はいた。
前日も会って話をしていた2人だが、改めて高校時代の監督と選手の間柄に戻り、当時の話を詳しく聞いていった。
- 大藤監督は西川さん、西川社長は大藤監督と初めて会ったときの第一印象はいかがでしたか。
大藤監督 実は中学の時から西川社長を追いかけていまして、中学校にも何度もあの選手が欲しいと挨拶に行きましたね。当時は130キロを超えるボールを投げて、バッティングもいい。それでいて体格もしっかりしていました。
西川社長 子供の頃から憧れていた監督に会うことができたという喜びと、必ず中京に入りレギュラーで活躍したいと強く思ったことを覚えています。当時、中京に入れなかったら野球をやめるとまで言っていましたから。
- その後進学し中京大中京で3年間プレーされたわけですが、大藤監督との印象的なエピソードはありますか
西川社長 腰の怪我で1年くらいはグラウンドに立てなかったんです。グラウンドにも行かずに、リハビリに行っていた時期もありました。
それでも大藤監督は「治してからグラウンドに戻ってくればいい」と言ってくださいました。僕自身、怪我が続いたので「レギュラーは難しいかな」と悩んだ時期もあり、両親や周りの期待に応えられず終わるのかと弱気になっていたんです。あの時大藤監督がそういった言葉をかけてくださらなかったら、野球を諦めていたかもしれません。
- 大藤監督が西川社長を3年間指導されて一番成長を感じられたところはどのような部分でしょうか。
大藤監督 西川社長の最後の夏は愛知大会の準決勝で終わりましたが、9回二死ランナーなしでバッターボックスに立ったんです。結局ラストバッターになるのですが、腰の状態が万全ではなかったのにも関わらず、「痛い」とは言わずに最後まであきらめないでバットを振って。
その姿を見た時に、「腰も痛いのに最後まで必死になってやり切る。次に繋げるんだ」という姿に成長を感じましたね。
- 腰の怪我を抱えながら試合に臨んだ西川社長ですが、最後の夏はいかがでしたか。
西川社長 優勝候補筆頭として注目されていたチームでしたから周りも実力のあるチームメイトばかり。春の東海大会以降は、夏に向けてさらに練習量を増やしました。そうしたら膝を怪我してしまい、走れなくなってしまって。強化遠征とかに行っても代打で出場するのがやっとでした。
それでも、夏の大会前に大藤監督に呼ばれまして、「出られるのか」と聞かれ「出させてください」と答えました。ただ膝は回復せず注射を打ちながら試合に臨むような状態で。結局負けた時は不完全燃焼というよりも、「チームに貢献できなくて申し訳ない」という思いが強く涙も出なかったです。
- 大藤監督は、怪我を抱えながら夏を迎えていた西川社長をなぜ起用したのでしょうか。
大藤監督 それは人間性に魅力を感じたからです。以前、大阪桐蔭の西谷浩一監督に、2014年の優勝の際、1番に主将を起用した理由を聞きました。当時別の選手が選ばれるかと思ったのですが、「主将が1番じゃないとチームがまとまらない」と言うんです。それを聞いて「あれだけの凄い選手がいる中でも人間性を見て決めるのか」と納得したのを覚えていますそれと同じで、僕自身も自然と選手の人間性を重視してきたのだと思います。
[page_break:互いの今後についてのメッセージ]互いの今後についてのメッセージ
大藤敏行監督
- 西川社長は中京大中京を卒業されてから、大藤監督にお会いしていたのでしょうか
西川社長 入学して3か月で大学を辞めてしまい、そのことに対する後ろめたさもあって大藤監督に会いたいと思っても行動できない時期がありました。東京で結果を出してから挨拶に行こうと思い経営者として必死で頑張りました。
その後、同級生の結婚式のタイミングでご挨拶することができたのですが、その時は30歳になっていたので15年くらい会っていなかったです。監督には高校時代本当に怒られましたが、大藤監督が人生において一番の恩師ですし、多くを学ばせていただきました。
大藤監督 西川社長とは再会してからよく会うようになりました。現在も生徒が東京の大学に進学する時には生徒も一緒になって食事に行ったりします。東京に行くたびにお世話になっています。
-西川社長は、元々面倒見が良かったのでしょうか
西川社長 そんなこともないですが、中京大中京の仲間なので、後輩たちには喜んでもらえればと思っています。
大藤監督 今も高校時代も変わらないですよね。心から相手のためを考える人ですよ。
昨日、社員さんにお会いしたときに本当に気持ちの良い対応をしてくれたんです。きっとそれは西川社長の人柄が会社の雰囲気をつくり、社員さんにも浸透しているからだと思います。
練習中の大藤敏行監督
- 西川社長の現在の活躍を大藤監督はどのように感じていますか。
大藤監督 すごく嬉しいです。それに、例えば軟式野球が東京で大会をやるとき「差し入れ頼む」と連絡すると、生徒たちにプレゼントしてくれるんですよ。生徒たちも経営者として活躍している先輩に会えるということで大喜びでして。
西川社長 部活動関係なく、頑張っている後輩たちを応援できるのは嬉しいです。
- それでは最後に西川社長、「人生で大切なことは高校野球から学んだ」というテーマに基づき、野球を通して学び現在の経営にいかされていることを伺えますか。
西川社長 怪我のせいでグラウンドに立てず辛い思いをしたこともありました。それでも野球を辞めなかったことが人生においてとても大切な経験になっています。
うまくいかないとすぐに仕事を辞めてしまう人がいますが、逃げずにやり続ければ道が拓けるときがくると信じていますし、厳しい状況を乗り越えた経験が人生において大切な財産になるのだと思います。社員に対しても、思いをかけたいメンバーに対しては最後まで信じようと決めていますが、これは大藤監督が高校時代、自分を最後まで信じて起用してくださったおかげです。
経営者としてやり抜く力、諦めない心を教え培ってくれた高校野球の経験と大藤監督には本当に感謝していますし、野球に関わっている高校生の皆さんにも、例え思い通りにいかなくても全力で野球に取り組み、その経験を財産に社会で羽ばたいてほしいと願っています。
-本日はお忙しいところお時間いただきありがとうございました!
西川社長 ありがとうございました。
大藤監督 ありがとうございました。日本をもっと元気にしてほしいと期待しています。
(文/ 田中 裕毅 )
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