槙原寛己氏が語る、知られざる大府高校への入学の決め手。愛知4強を選ばなかったわけ【前編】
現在、大好評配信中のAmazonプライムビデオ「プロ野球そこそこ昔ばなし」は、芸人ナイツと吉田明世アナウンサー、野球解説者の金村義明氏を中心に毎回、プロ野球OBのゲストを迎え、当事者たちしか分からない当時の裏話を笑いとともに語り合う内容になっている。気になる話は本編を見ていただければと思うが、そこに第10話と第11話のゲストとして出演した槙原寛己氏が今回のお相手だ。
1981(昭和56)年のドラフトで大府高校在籍時代に巨人から1位指名で入団した槙原投手。その後プロ野球では完全試合なども達成し、通算159勝を記録している。そんな槙原投手の高校時代を振り返ってもらった。今回は3回連載にてお届けします!
槇原氏は、愛知県半田市出身で、半田中から大府高へ進学。愛知県では、私学4強と呼ばれている中京(現中京大中京)、東邦、享栄、名古屋電気(現愛工大名電)名古屋市内の4強に加えて愛知も強く、私学5強と呼ばれていた時代である。そんな中で、比較的名古屋市にも近い半田市から、敢えて大府高に進学した槙原氏。そのあたりから聞いてみた。
兄の影響もあり私学5強ではなく大府に進学
通算159勝を誇る槇原寛巳氏
―― 当時はまだ、今の時代のように少年野球のクラブチームがそれほどあるわけではなく、槙原さんも半田中の野球部だったんですが、中学での成績(知多地区では郡大会という)はどうだったのでしょうか。
郡大会は、そんなに勝っていないですよ。一つか、二つだったんじゃないですか。
―― 当時から、背も高く大型投手という評価は得ていたと思うのですが、高校進学としては、いわゆる名古屋私学4強という進路は考えていらっしゃらなかったんですか。
正直、あまり知らなかったんですよ。それに、今みたいにそんなに情報が溢れているという時代でもありませんからね。どこにどんな選手がいて、どこへ行くんだなんてことはほとんど知りませんでした。
―― ただ、多くの有力校から、声をかけられたり、誘われたりということはなかったのでしょうか。
球は速かったかもしれませんが、そんなにコントロールもよくなかったですから、そんなこともなかったと思います。それと、ちょうど三つ違いの兄が大府でやっていましたし、自分もそこでいいかなと思っていました。普通科で、野球をやれて大学へも行けるところと言うと、大府が一番よかったですね。
―― 当時の大府は、澤正良監督で愛知県では知られた監督でもありました。
練習も見学に行ったんですけれども、ここでやろうという気になりました。
入学時は甲子園に行けるなんて思いもよらなかった
「プロ野球そこそこ昔ばなし」に出演し、当時を語る槙原寛巳氏
愛知県の高校野球では中京と東邦の2強となっていたが、そこへ伝統の享栄と比較的新しい勢力としての名古屋電気が私学4強と捉えられていた。この頃にはそこに愛知高も加わってきていた。そんな時代にあって、大府は愛知県の公立校としては1964(昭和39)年夏に甲子園出場を果たしている。
これは、愛知県の公立校としては1957(昭和32)年の津島商工(現津島北)以来の出場ということになった。そんなこともあって、県内の公立校としては、もっとも甲子園の可能性のある存在という評価ではあった。
―― 実は、槙原さんが入学される15年前に、大府は甲子園出場を果たしていたのですが、そんなことも意識はされていたのですか。
それも、ボクはよく知らなかったんですよ。ただ、いろんな人の話からも、『甲子園へ行ける可能性はあるぞ』みたいなことは言われていました。ただ、自分としては現実にはなかなか難しいだろうなと言うのが正直な気持ちでした。
―― ところが、現実には2年生の夏に甲子園出場を果たすことになります。槙原さん自身は大府のユニフォームを着てベンチ入りしたのはいつからだったのですか。
1年の夏から、ボクと捕手(馬場茂=筑波大を経て、のちに大府高校監督。現西尾東校長)のバッテリーだけは入っていました。
―― 入学したすぐの、高校野球の印象としてはどうでしたか。
入学した当初は、(地元では強豪の)大府中の連中がいて上手いなぁとは思っていましたが、ブルペンで投げてみたら、負けてないなぁと思えるようにはなりました。それで、すぐにある程度はやれるんじゃないかとは思いました。
―― 当時の、大府はどんな練習だったんでしょうか。
定時制があったんで、そんなに遅くまでは練習やれなかったんですよ。だから、自分としては普通じゃないかなと思っています。
前編はここまで。次回の【中編】では高校2年夏、高校3年春の甲子園出場の記憶に迫ります。【中編】もお楽しみに!
(記事=手束 仁)