目次

[1]東京砂漠のような異空間
[2]高校野球と大学野球が同時に観られる特別エリア

 2019年11月3日、帝京日大三の試合を最後に幕を下ろした神宮第二球場。東京の高校野球を支え続けた球場が終わりを告げたが、今回はそんな神宮第二球場にスポットを当てて、その特徴や東京担当・大島裕史の神宮第二球場への思い出、さらには監督たちの言葉を交えながら振り返っていく。

東京砂漠のような異空間


 2020年が幕を開けた。今年の東京の高校球界は、「ジンニ(神2)ロス」を感じることになるだろう。
 両翼91メートル、中堅116メートルと狭く、老朽化して痛みも激しい。神宮第二球場は問題の多い球場だったが、交通の便もよく、選手とスタンドが近く、独特の雰囲気があり、高校野球ファンに親しまれた。

 私が初めてこの球場を訪れたのは中学2年の秋で、1975年の明治神宮大会であった。この年の夏に父親の仕事の関係で滋賀県大津市から東京に引っ越していた私は、大津市で慣れ親しんできた比叡山作新学院と対戦すると知り、ワクワクしてこの球場に来た。

 しかし球場をみたカルチャーショックが大きく、試合内容はほとんど覚えていない。一塁側にはゴルフ練習場があり、高いネットに囲まれている。それに当時のグラウンドは、外野まで黒い土で、まるで「東京砂漠」のようだった。東京の高校生は、すごい球場で試合をしている、という第一印象は強烈だった。

 日大二の田中吉樹監督は、当時同校の外野手だった。「つむじ風がすごく、砂ぼこりが舞って、試合がよく中断しました」と、当時を振り返る。

 私が東京のチームの試合を初めて観たのは、翌年の春季都大会の準々決勝、桜美林早稲田実業の試合だった。桜美林はその年の夏の甲子園で全国制覇を果たし、2年生が多かった早稲田実業は、翌年の春と夏の甲子園で準々決勝に進出している。したがって、非常にレベルの高い試合であったが、観客は多くなった。

 当時、東京の高校野球人気はそれほど高くなかった。それでも桜美林の全国制覇は、東京の高校野球人気の起爆剤になった。

 当時の東京の高校球界は、甲子園は私立の強豪校が目指すもので、都立校は蚊帳の外にあった。しかし「甲子園の心を求めて」の著書で全国的に知られていた佐藤道輔監督率いる都立東大和が、78年の春季都大会で準優勝。甲子園を狙える都立校の出現に、神宮第二球場も沸いていた。

 さらに1年生の荒木大輔を擁する早稲田実業が、80年の夏の甲子園で準優勝したことで、東京の高校野球人気は、一気に高まった。