目次
[1]松井秀喜の5打席連続敬遠
[2]平成最後の夏は史上初となる逆転満塁サヨナラ本塁打を浴びる

 星稜が初めて甲子園に姿を現したのは、1972(昭和47)年夏である。この時は初戦で北見工に勝利して、2回戦で準優勝する柳井に敗れている。その4年後、小松辰雄投手(中日)を擁してベスト4に進出するのだが、これが最初に星稜が全国的に注目された時と言っていいであろう。当時、世に出回り始めたスピードガンの計測値が145キロとか150キロと言われて、剛腕小松は「スピードガンの申し子」などともてはやされた。そして、敗れてなお小松投手の存在とともに星稜のインパクトは強烈だった。

 その後、甲子園の常連校となっていく星稜だが、次にスポットを浴びたのは1974(昭和54)年夏となる。3回戦でこの年春夏連覇を狙う箕島との、あの伝説の試合である。1対1のまま延長にもつれ込んでいくが、先攻の星稜は延長に入って2度リードするものの、ことごとくその裏に本塁打で追いつかれる。しかも、16回には相手打者の一邪飛で万事休す、星稜勝利かと思われたが、一塁手が芝生の切れ目に躓いて転倒。その直後に本塁打が飛び出すというものだった。その挙句に、引き分け再試合寸前の延長18回にサヨナラ負け。

 星稜の大健闘は称えられたとともに、その試合そのもののドラマ性も含めて今でも語り継がれている好試合となっている。こうして、非運の星稜が作られていった。

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第101回全国高等学校野球選手権大会

松井秀喜の5打席連続敬遠


 その後、星稜は石川県を代表する強豪として甲子園の常連校となっていく。

 時代は昭和から平成に移ると、星稜は平成元年となった1989年夏から4年連続で甲子園出場を果たす。その間に、やがてメジャーで活躍して国民栄誉賞も受賞する松井 秀喜も入学してきて、1年生の夏から4番打者として活躍していた。松井が2年生の91年夏には、その年の最大の注目校だった松商学園を準々決勝で下してベスト4に進出している。準決勝では、優勝する大阪桐蔭に敗退するが、星稜の存在感は卵色のユニフォームとともに強烈にアピールした。

 そして松井が3年生となった92年には春夏連続出場を果たす。

 春は開幕試合を引き当てて松井が本塁打2本を放つなどで大勝。さらに星稜の存在感を印象づけた。この年からラッキーゾーンが撤去されたのだが、そうした中で放った松井の2本塁打は強烈な印象だった。その星稜、夏は優勝候補の一角にも名を連ねていた。2回戦は明徳義塾との試合だったが、明徳義塾は松井と勝負せず5打席すべてを敬遠して試合は、星稜は2対3の1点差で敗退した。明徳義塾の秘策だったが、そのことが物議を醸し、甲子園では前代未聞の大騒動となった。

 このことで、さらに星稜は敗れ方で注目されていく存在となった。

 その3年後、山本省吾投手を擁して決勝進出を果たし、「北陸勢初の全国制覇」への期待も高まったが、帝京に1対3で敗退。さらに、敗者として星稜が印象づけられていくことになった。

「強いけれど、どこか球運に恵まれない星稜」
 そんなイメージも根付いてきてしまった。