韓国野球は、なぜ東京五輪で惨敗したか【前編】
失われた代表チームへの誇り
2019年U18韓国代表の選手たち
今回の東京五輪の野球競技では、日本が正式競技としては初、公開競技だった時も含めると1984年のロス五輪以来の優勝を果たした。一方、2008年の北京五輪で優勝するなど、国際大会では抜群の強さを発揮していた韓国は銅メダルも獲得できず、4位に終わった。
韓国がこれまで国際大会で強かったのは、国際大会の戦い方を知っていることと、代表チームに対する誇りがあったからだ。そこには、アジア競技大会での優勝もしくは、五輪でメダル獲得した際に与えられる兵役免除や生涯年金などの恩恵も加味されている。
野球の韓国代表が初めて結成されたのは、アジア野球選手権が始まった1954年のことだ。日本は大半の大会で都市対抗野球の優勝チームに何人かを補強したチームや、東京六大学選抜など、大学の選抜チームなどを派遣した。日本でアマチュアの日本代表意識が高まったのは、アマチュア野球選手権が日本で開催された1980年頃からだ。
18歳以下の大会もAAA選手権という名称だった1981年の第1回大会から、韓国はベストメンバーが参加。第1回大会は韓国が優勝し、後に中日でも活躍する宣銅烈(ソン・ドンヨル)がMVPに輝いている。日本がこの大会に本格的に参加したのは2012年のことであるから、そこでもかなり開きがある。
また日本では、国際大会の経験は主に社会人野球で受け継がれてきた。その中心的人物の1人が、ロス五輪の優勝監督である松永怜一だった。けれども、こうした経験に基づく知識は、プロ・アマ混成だった2000年のシドニー五輪を経て、プロ中心になった4年後のアテネ五輪では、ほとんど受け継がれなかった。もちろん、世界の野球は急速に変化しており、過去の知識が役立たない部分もある。それでも、代表選手の選び方や戦い方の根本的な部分では、継承されるべきものもあったはずだ。
今回、大学、社会人を通じて松永怜一の愛弟子である山中正竹が強化本部長になった。そして稲葉篤紀監督は、山中が法大監督だった時代の教え子だ。稲葉監督は山中強化本部長の影響を受けつつ、稲葉カラーのチームを作ったのではないか。
一方韓国では、長い年月をかけて築かれてきた代表への誇りが傷つく出来事が3年前にあった。
2018年のジャカルタ・アジア競技大会の野球で韓国は優勝し、9人が兵役免除の資格を得た。けれども、代表選手の選び方が不公正であるという世論が盛り上がり、代表監督であった宣銅烈が、国会の国政監査(聴聞会)に呼び出された。そこでスポーツに理解のない国会議員から、「勤務時間は?何時に出勤して何時に退勤しますか」とか「なぜA選手でなく、A選手より打率が低いB選手を選んだか」といった質問をぶつけられた挙句、女性議員から「優勝は難しいことと思っていません」と怒鳴られ、さらし者にされた。
ジャカルタ・アジア大会では、日本は社会人野球の選手でメンバーが構成されたのに対し、韓国はオールプロのベストに近いメンバー。韓国が優勝の大本命であることは間違いないが、野球は波乱の多いスポーツであり、宣監督にかかる重圧も大きかった。それをけなされては、宣監督の立場はない。
そもそも韓国代表はプレッシャーが大きく、なり手がない職責だった。宣銅烈も何度も名前が挙がりながら、拒否し続けてきた。そこで代表監督を任されてきたのが、2006年、09年、16年のWBC、15年のプレミア12で監督を務めた金寅植(キム・インシク)であった。脳梗塞の後遺症がある不自由な体で指揮を執る金寅植を、コーチも選手も一体となって盛り立て、好成績を残してきた。しかし16年のWBCでは、1次ラウンドで敗退し、金寅植は代表監督から引退することを表明していた。
そこで韓国球界の切り札として代表監督に就任したのが、宣銅烈だった。宣は、現役時代は「野球国宝」と呼ばれた絶対的な存在である。その宣が大恥をかかされ、代表監督を辞任した。それと同時に代表チームの権威も失墜した。
とはいえ、東京五輪に向けての代表監督を決めなければならず、北京五輪の優勝監督である金卿文(キム・ギョンムン)が就任した。北京五輪以来の野球競技の復活だけに、金卿文も職責の重要性は認識していたが、北京五輪の時のような熱意はなかったと思う。
さらに東京五輪を前に、2人の選手が感染拡大予防のため禁止されていた飲み会に参加していたことが明らかになり、交代を余儀なくされた。こうした出来事により、代表選手の自覚のなさが浮き彫りになった。
韓国はこれまで、戦力プラスアルファの部分があったからこそ、国際大会で好成績を収めてきたが、今は、そうしたものがないどころか、マイナスに作用している。これでは勝つのは難しい。
(取材=大島 裕史)