髙橋 左和明(たかはし・さわあき)監督のルーツと言えば仙台育英時代に戻る必要があるだろう。髙橋監督は、1989年春、夏と甲子園に連続出場をした代のキャプテンである。
当時について髙橋監督は、「練習から一つのミスもしないような、常に緊張感も凄かったです。あの緊張感は二度と作り出せない。やっぱりプレッシャーがすごかったですね。だからこそ甲子園に行けた」と話している。そんな仙台育英時代がどのような影響を髙橋監督に与えたのか紐解いていきたい。
「考える力」を養った高校時代

選手に向けてノックを打つ髙橋左和明監督
当時髙橋監督が仙台育英の門を叩いた時、竹田 利秋(たけだ・としあき)元監督が東北高校より仙台育英に移り指導をしていた。
「竹田先生は僕の恩師です。本当に野球に長けた人ですから、キャプテンとしていろいろ教わった」
と髙橋監督自身が竹田元監督に深く影響を受けたと回顧している。
竹田元監督は、当時としては非常に画期的な取り組みを数多く行ってきた、アメリカ遠征などの先駆けでもある。そんな竹田先生のもと野球漬けの毎日を送っていくことになる。
「仙台育英の時は当時は体育コースというのがあって、午前中に授業が終わります。それからグランドが隣の市にあったんでそこに移動して、午後からだいたい10時ぐらいまで練習していました」
こんな野球一色の環境の中で、髙橋監督は野球について深く考えていくことになる。
「竹田監督が仙台育英に来られてからは『考える野球』というのをモットーにやっていました。何かあればすぐに集まってミーティングで、すぐに選手間で考えさせる。 答えはないんですよね。でも、答えを一応出せ。苦しかったですね。答えがないことを考えるので。間違ってると、また集まって考えなければいけない。選手が知恵を絞って考えることの積み重ねですね。答えを出すために、深く考える。そういう感じで考えて導き出していかないと勝利はないと言う考えです。 毎日それがあるんで、それは苦しかったですね」
髙橋監督は、まさに竹田イズムの根本となる「考える野球」を、仙台育英の野球漬けの環境の中で着実に身についけていった。
「僕の原点は、竹田先生から教わりましたね。考え続ける。だからこそ、これでいいのか?というのを常に何かあったら疑問に持てるようになりました」
野球と誠実に向き合った結果は自然とついてくる。髙橋監督はキャプテンとして平成元年に春、夏と甲子園出場を決め、仙台育英の黄金時代の礎を築いた。
こうして、髙橋監督は「考える力」を野球を通して磨いていったのである。