目次

[1]70年代以降の鹿児島勢の躍進
[2]三すくみ状態の鹿児島県の勢力構図

70年代以降の鹿児島勢の躍進


 かつて鹿児島県の野球をリードしていったのは鹿児島商である。戦前からの市立商業学校なのだが、長い間、県内の野球をリードしていた。それに一中(現:鶴丸)、二中(現:甲南)が絡むというものだった。さらにはそれを追って、市立高校の鹿児島玉龍出水商といったところも頑張っていた。
 とはいえ、鹿児島県勢が甲子園で実績を示してきたのは70年代以降で、71年夏に鹿児島玉龍がベスト8に進出し、翌年は定岡正二投手を擁する鹿児島実が優勝候補の東海大相模を延長の末に下すなどしてベスト4に進出したころからだ。定岡人気もあって、一気に注目されるようになった。

 こうして、鹿児島県の力関係は市立勢の鹿児島商から徐々に鹿児島実に移って行った。さらにもう一つの勢力として枦山智博監督が就任した鹿児島商工が加わってきて、三つ巴の状態になってきた。とくに鹿商工は80年代に入ってから力をつけていった。この3校の県内の争いが結果として鹿児島県のレベルもあげていったということが言えるのではないだろうか。
 ちなみに当時、この3校の帽子のマークは鹿商が商業の「S」、鹿実が実業(business)の英語で「B」、鹿商工が「K」だったのも面白かった。要するに、県内での区別がわかりやすいということが最優先となっていたのだと考えられる。
 その後、鹿商が徐々にフェイドアウトしていって2強の時代へと突入していく。

 鹿児島商工樟南と校名変更したのは福岡真一郎―田村恵(現広島スカウト)のバッテリーが3年生となった94年である。優勝も狙えるチーム力との大会前からの評判も高かったが、下馬評通りに勝ち上がって決勝に進出した。決勝戦では九州対決で佐賀商の前に屈するものの新校名はしっかりと全国に印象づけた。
 鹿児島勢としても初めての決勝進出であった。

 全国での戦いぶりからすれば県内で一番リードしているはずの鹿児島実だったが、気がついたら樟南に先を越された感じになってしまった。
 ところが、その2年後に鹿児島実はしっかりと逆襲する。96年春に下窪陽介投手を擁して智辯和歌山を倒してついに全国の頂点に立ったのである。県勢初の全国制覇となり改めて鹿実野球健在を印象づけた。とくに、白地に黒の太文字で力強く「鹿実」のユニフォームは改めて、鹿児島県の高校野球のリーダーであるという印象を与えてくれた。