目次

[1]高鍋がリードした時代から、日南学園と延岡学園が双璧をなす時代へ
[2]2000年代に入ると新興勢力が一気に台頭

高鍋がリードした時代から、日南学園と延岡学園が双璧をなす時代へ


 長らく宮崎県の高校野球は高鍋がリードしていく形だった。しかし、現在では他県に洩れず、宮崎県も日南学園延岡学園などの私学勢力が強くなっている。
 そもそも宮崎県は九州でも野球後進県的な存在となっていた。県内から初めて甲子園に登場したのは高鍋だったが、1954(昭和29)年になってやっと実現する。甲子園出場県の記録としては、日本に復帰していなかった沖縄を除くと一番遅い記録となる。しかも、圧倒的に遅かった。
 その後、宮崎県は南九州大会として沖縄と組むようになっていたこともあり、記念大会の後の59年からは毎年のように甲子園に駒を進めている。その中心となったのが初の甲子園を記録している高鍋と、県内で一番の歴史を誇る旧制中学型の名門校で旧宮崎中の宮崎大宮だった。これに、宮崎商あたりが絡むというのが主な図式となっていた。

 宮崎県勢の甲子園初勝利は57年の宮崎大宮だが、当時としては、辛うじて甲子園に出てきて、組み合わせがよければ、まあ1つくらいは勝てるかなというのが正直なところだった。
 宮崎で公立勢に刺激を与えたのは都城が最初だった。ラグビーも強くやはり高鍋と競り合っていた。私立のスポーツ強化校という立場でもある。70年夏に始めて甲子園に登場して、77年、78年夏と連続して甲子園に駒を進めた。84年春にはベスト4に進出している。

 その都城と競うように登場してきた私立勢力が日向学院延岡学園という形でつながっていく。その後、県内で実力派として台頭していくのが日南学園で、現在ももっとも安定した力を示している。一躍有名になったのは、甲子園の最速記録154キロを表示した寺原隼人投手(ダイエー・ソフトバンク→横浜など)のいた01年夏のことである。