秀岳館旋風から新たな構図も出来て伝統の熊本工に九州学院、文徳も
熊本の勢力構図を一気に変えた秀岳館
ここ2年間で強烈な印象を残した秀岳館
ここ2年間で強烈な印象を残したのが秀岳館だった。結局、甲子園では3大会連続の準決勝敗退となったが、鋭いスイングからの強烈な打球を放つ打線は、力強かった。鍛治舎巧監督が、「3年後に甲子園」と誘った選手たちと挑んだ3年目。一気にはじけたのだが、その鍛治舎監督が17年夏を最後に勇退。新時代を迎えつつある。かつては八代第一と言ったが、松中信彦(新日鐵君津→ダイエー・ソフトバンク)なども輩出している。秀岳館に校名変更して、01年夏に初出場を果たし、03年春にも甲子園出場を果たした。その時代からはユニフォームも変更して、新しいチームという印象だった。
この力強さに、これまでの熊本代表とは異なるものを感じさせられた。と同時に、熊本の勢力構図も変わっていくのだろうかと思わせた。
秀岳館時代までの熊本県は、何と言っても、「打撃の神様」として世の野球ファンに対して自らを神格化した存在だった。読売巨人の9連覇時代の監督でもあった川上哲治御大を輩出している熊本工だが、常に県高校野球の中心だった。戦前戦後を通して、たえず強豪であり続けているということは素晴らしい。
創立は古く、1898(明治31)年に県立工業として創立という歴史がある。野球部は1932(昭和7)年に初出場を果たし、以来コンスタントに甲子園に顔を見せている。初出場から2年後の34年に決勝進出を果たすが、打撃の神様はこの時すでに2年生としてメンバーに入っていて試合に出ていたというのだからさすがだ。中等野球の2年生だから、現在の中学2~3年生に相当すると思えば、その素質の高さというかセンスの素晴らしさが伺えるであろう。そして最上級生となった37年には伝説の吉原正喜捕手とバッテリーを組んで決勝進出。当時無敵の中京商(現:中京大中京)に破れるが、その質の高さは今も語り継がれているくらいである。
ただ、そんなに強い熊本工だが、ついぞ甲子園では優勝経験のないまま21世紀を迎えた。その熊本工がもっとも優勝旗に近づいたのも、20年以上前となってしまった。1996(平成8)年夏、松山商との決勝戦は、2-3とリードされた熊本工が9回2死から1年生の澤村幸明が起死回生の同点本塁打を放つ。延長に入って10回裏、1死満塁で3番・本多の大きなライト飛球は犠飛で、熊本工悲願の初優勝かと思った瞬間、右翼手からの矢のような送球で三塁走者は本塁憤死。気落ちした熊本工は延長11回に3点を失い、結局準優勝となった。深紅の大優勝旗の柄にまで触れながらも、ついに手繰り寄せきれなかったが球史に残る名勝負だった。
伝統と歴史の重さを背負う、県内屈指の古豪だが全国優勝への道は果てしなく厳しいようだ。とはいえ、21世紀になっても熊本県の歴史は熊本工が中心となって作っていくということは変わりない。07年春にもベスト4に進出している。17年春も秀岳館とともに出場している。
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秀岳館を追いかけるのは九州学院に文徳、伝統の熊本工や城北など
九州学院からは昨年のドラフトで村上宗隆がドラフト1位でヤクルトに指名された
熊本工が頂上に立ち切れないでいるのだが、そんな熊本工をよそに県内一の名門校として、現在も文武両道が売りとなっている濟々黌が58年春にスイスイと出てきて城所投手(早大)で全国優勝を果たしている。濟々黌は明治初頭に私立の濟々黌として創立して、その後県立に移管して、第一と第二に分離した。第一濟々黌が現在の濟々黌高校だが、第二濟々黌が熊本高校となっている。旧制時代の名残のようなバンカラさを残すのだが熊本には、「武夫原頭に草萌えて」の寮歌でも有名な旧制第五高等学校があり、その質実剛健ぶりには定評があった。そんな名残を背負っているのが濟々黌ということがいえるかもしれない。12年夏と、13年春に甲子園に戻ってきて、古くからのファンを喜ばせた。
こうして、熊本県の高校野球というと熊本工と濟々黌が中心となって、それに熊本商あたりが少し絡んでくるというのが戦前から戦後当初の勢力地図だった。つまり、いずれも熊本市内の公立の普通科と実業系という学校が中心となっていた。
熊本県でようやく私立校が全国に登場したのは1959(昭和34)年夏の鎮西が最初だった。鎮西に引き続いて63年夏に九州学院が出場することになる。九州学院も鎮西も明治末に創立した古い学校だが、野球部そのものは戦後の学制改革の後に活躍が目立つようになってきた。もっとも、キリスト教系の九州学院はモダンなセンスを感じさせてくれており、実は東海大勢躍進以前から、タテジマユニフォームを使用していたという歴史もある。つまり、元祖タテジマである。
また、熊本市以外の学校としては1964年の八代東が最初でその後70年、73年と出場した。そして、2007年夏に3度目の出場を果たして復活したのは見事だった。また、八代工も一度だけ甲子園に出てはいるが、中心はやはり熊本市内の学校だ。
熊本工の他には東海大二から校名変更した東海大熊本星翔や青いユニフォームで度肝を抜いた文徳(旧熊本工大高)などの存在も目立っている。
圧倒的に熊本市内優位という中で、平成になって人口3万人少々の山鹿市の熊本城北が力をつけてきて93年以降春2回、夏2回甲子園に出場している。
こうして現在は、新しい形で抜け出した秀岳館を追いかけて九州学院や文徳が迫りながら、伝統の熊本工と熊本城北が上位を形成。さらには、11年夏に初出場を果たした専大玉名や14年春出場の鎮西なども追いかける。さらには、今春から校名変更をした旧東海大二の東海大熊本星翔、ルーテル学院に熊本国府、新鋭の有明などもチーム強力している。熊本工と濟々黌以外の公立勢としては、旧熊本市立の必由館、千原台、八代東なども健闘している。
(文:手束 仁)