目次

[1]長崎南山と海星が長崎の高校野球を変える
[2]長崎の海星と三重の海星
[3]長崎県悲願の全国制覇を果たした清峰

長崎南山と海星が長崎の高校野球を変える


 日本の歴史をたどれば、鎖国政策をしていた江戸時代で唯一海外の新しい文化を取り入れることを許されていたのが長崎だった。そういう意味では、進取の気性に富むというか、新しいものを取り入れることには抵抗のない地域であるというとらえ方もできるだろう。だから、海外スポーツである野球もいち早く普及していたかと言うと、そうでもない。もっとも、文化の受け入れ口がオランダなのだから、野球とはあまり関係ないということだろうか。

 長崎の高校野球はどちらかというと立ち遅れていた。戦前、ほとんど実績はなく、わずかに長崎中(現長崎西)と長崎商がそれぞれ甲子園出場を果たしてはいるものの、これといった成績を残しているわけでもない。
  戦後になっても同じような状況は続き、甲子園の結果だけでいえば、わずかに1952(昭和27)年に長崎商が春、夏それぞれ勝利をおさめてベスト4に残ったこともあるが、それ以外は苦戦続きだ。そして、そこまでは公立校がすべてだった。
 そんな長崎の高校野球構図が変わってきたのは、県勢としては初めての私立として甲子園に出た長崎南山が59年春に杉町攻投手(西鉄)で突発的にベスト4に進出してからである。

 その年の夏から海星が主導権を握り始めるようになる。野球部の創部そのものは1915(大正4)年と歴史は古いものの、長い間苦戦の続いた海星だったが、まるで長崎南山に刺激されたかのように強化されていった。それにしても、公立勢の壁を破った私立校の2校が2つともカトリック系というあたりはいかにも長崎県らしいといえるのではないだろうか。