星稜、金沢、遊学館の三すくみ状態が今後も続きレベルアップも期待される(石川県)
話題という点からも、石川県の高校野球をリードしているのは何といっても星稜だ。タマゴ色のユニホームと青い帽子に「星」のマークは、全国的にもすっかり定着した。その星稜が最初に注目を浴びたのは1976(昭和51)年夏に小松 辰雄投手(中日)を擁して甲子園に登場し石川県勢として初めてのベスト4に進出したときである。
79年夏の死闘や松井 秀喜の5打席敬遠四球などが語り草となっている星稜
星稜高校時代、松井 秀喜は三塁手だった
次に全国に知られる一番のきっかけとなったのは79年夏の3回戦だ。今も語り継がれる箕島との延長18回の死闘である。延長に入って先攻の星稜が2度までもリードしながら、ついに18回裏にサヨナラ負けを喫してしまう。しかも、延長戦での同点劇がことごとく相手の本塁打というのもよりドラマチックだった。黙々と208球を投げて破れた堅田 外司昭投手(現審判員)には全国のファンが共鳴した。
そして、星稜が再び全国の注目と同情を集めたのは松井 秀喜(読売→MLB)が主将で四番サードとして登場した1992(平成4)年の夏である。2回戦で明徳義塾と当たったが、怪物・松井は5打席全部敬遠四球。甲子園の最後の試合は20球を見送るだけで終わってしまった。その後球場全体がパニック状態になり、まさに甲子園の高校野球としては前代未聞の騒動となった。この出来事が松井選手そのものの評価も高めたが、高校野球の球史に残る試合だったといっていいだろう。
その3年後の95年夏に山本 省吾投手(慶応義塾大→近鉄→オリックスなど)で星稜としては初めての決勝進出を果たすが帝京の前に涙を飲んだ。星稜野球はイコール山下 智茂監督(現総監督)の情熱的な指導でもあった。その山下監督の薫陶を受けている林 和成監督が引き継いだ。松井の一年下だが三遊間を組んでいた。
星稜・金沢の一騎打ちの図式に割って入る遊学館
遊学館高等学校
星稜の最大のライバルとして存在しているのが石川金沢だ。毎年のように県大会の決勝で顔を合わせてきた。甲子園での実績や通算成績では星稜にいささか水を開けられているような印象もあるが、石川金沢のスカイブルーのさわやかな青もすっかり甲子園になじんできている。
その石川金沢が甲子園で快挙を達成している。94年の春のセンバツ大会1回戦で、開幕初日の第3試合。開会式があって観客も少なくなっていて、いささか寂しいスタンドではあったが、島根の江の川を相手にあれよあれよという間に、中野 真博投手(青山学院大→東芝)が史上2人目の完全試合を達成したのだ。これで甲子園での石川金沢の立場も星稜に肩を並べる存在になったと言っても過言ではあるまい。
こうして、石川県ではますます星稜と石川金沢の一騎打ち的な図式が強くなっていった。石川金沢は96年、97年と夏に連続出場し、01年には春夏連続で甲子園出場し、03年夏と04年春にも甲子園に立て続けに出場を果たした。
ところがその両雄対決の構図に割って入ってきた新勢力があった。02年夏に創部1年4カ月、1・2年生ばかりで甲子園を勝ち取った遊学館だ。しかも、甲子園でも2勝してベスト8進出を果たし一躍全国の脚光を浴びる存在となった。
あたかも彗星のごとく突如登場した遊学館が明らかに県内の高校野球の構図に刺激を与えた。遊学館の山本 雅弘監督が長年星稜中学で指導していたということもあって、星稜関係者も慌てたのではないだろうか。遊学館は03年のセンバツにも出場して、安定した力を示した。石川県内に限らず、全国から入部希望者が集まってくる土壌もありますます力を充実させていきそうだ。
遊学館も安定した実績を残していることで、今後は星稜と石川金沢との三すくみの形になってさらに石川県のレベルを向上させていくことは間違ないだろう。さらには、14年夏の石川大会決勝では8点リードを9回に逆転されて甲子園を逃したことで逆に話題になった小松大谷(旧北陸大谷)、09年夏に初出場を果たしている日本航空石川、大相撲の遠藤を輩出するなど相撲部が全国レベルの金沢学院東は元プロ野球の金森 栄治監督を招聘して話題になっている。
公立勢では金沢桜丘や金沢市立工など伝統のある金沢市内勢に対して、小松市勢も健闘。小松や小松工(旧小松実)に小松明峰なども頑張っている。
(文:手束 仁)
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