駒大苫小牧が田中将大で、大会3連覇を果たすかという中で注目されていた年
高校野球の歴史を大きく変えた駒大苫小牧
高校時代の田中 将大選手
高校野球の歴史を大きく変えたと言われているのが、2004年の南北海道代表の駒大苫小牧の優勝である。2年連続出場となった駒大苫小牧。前年夏は初戦、倉敷工に4回二死まで8対0と大きくリードしていたが、台風の影響により大雨が止まずノーゲームとなり、翌日の再試合で敗退する。
その悔しさをバネに連続出場を果たしたのだ。大会前の評判は、「相手によって打順を組み替えられる強打のチーム」という触れ込みだった。とはいえ、まさか全国の頂点を取るような強力なチームだとは、さすがにほとんどの人は予想していなかったのではないだろうか。
実は、この年は北海道に野球革命が起きた年でもあった。というのも、プロ野球の日本ハムが東京から本拠地を札幌市に移転。球団名も正式に「北海道日本ハム」と名乗るようになった最初の年でもある。道民には新たに野球観戦文化が生まれかかった年でもある。
と同時に、北海道勢はこれまで甲子園で49勝、「50勝目は自分たちが…」そんな思いで挑んだ駒大苫小牧だ。この年の春には、尼崎市の野球少年だった田中将大も、「多くの学校から声をかけられたけれども、全国の学校から施設や環境などを見て、将来プロ野球選手になるということを前提として考えた」という理由で、駒大苫小牧を選択している。そして、その男が高校野球新時代を誕生させるとともに、歴史的な試合を演出することとなるのだ。
2006年夏に注目された打の怪物 堂上直倫選手と中田 翔選手
04年と05年夏に駒大苫小牧は連続優勝を果たす。これで、すっかり北海道も高校野球強豪地区となった。05年のメンバーには背番号11で2年生の田中将大がいたが、準決勝の大阪桐蔭との試合では先発して7回途中まで投げて平田良介(中日)をことごとく抑えている。田中は京都外大西との決勝では後半にマウンドに立ち4回1/3を投げて優勝投手となっている。
そして3連覇を目指すこととなった06年、田中はシーズン前から投の怪物として注目を浴びることとなったが、この年は同じように打の怪物としては前年センバツで2年生ながら主軸として優勝にも貢献した愛工大名電の堂上直倫がいた。その両方が、期待通りに甲子園に勝ち上がってきた。
ところが、愛工大名電は初戦であっさり福知山成美に敗退する。堂上は8回にタイムリーこそ放ったものの最後の夏の甲子園1安打で終わった。打の怪物としては大阪桐蔭の2年生の4番打者中田翔に期待が移ったが、その中田も2回戦で早稲田実の斎藤佑樹に大胆に内側を攻められて3三振を喫するなどで無安打。チームも敗退した。そして、代わって大会のヒーローとなっていったのが、その斎藤だった。マウンド上で青いフェイスタオルで汗をぬぐう仕草も話題となって、時のマスコミは“ハンカチ王子”と名付けた。
こうして、甲子園は新たなヒーローを生み出していくのだが、それが一つひとつ勝ちあがっていくことで、さらに人気を得ていくことになる。それが、やがて“ハンカチフィーバー”となっていった。
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3連覇を目指すも斎藤佑樹のヒール役となった田中将大
田中 将大選手と斎藤 佑樹選手
準決勝あたりからは、普段は野球にあまり関心のない人までが、「ハンカチ王子の斎藤君の早実が優勝するといいね」などと言うことを口にし出す始末だった。それくらいに、メディアの持ち上げぶりはすごかったのだが、それに応えるかのように、斎藤は準決勝ではベストピッチともいえる内容で、鹿児島工を3安打完封。鹿児島工は、榎下陽大がいた。榎下は九州産業大に進むが、早稲田大へ進んで4年後のドラフトで斎藤と同じく日本ハムから4位指名を受ける。
また代打男として、打席に入る前に「シャー!」と大声を出す今吉晃一も人気者となっていたが、その今吉も斎藤には手が出なかった。
駒大苫小牧も智辯和歌山を下して決勝進出している。智辯和歌山は準々決勝で帝京と壮絶な打撃戦を演じて、8対4と4点リードしながら9回表に8点を奪われて、それでもその裏に5点を奪い返してサヨナラ勝ちしてきて、勢いは最高潮だった。それを粉砕してきていたのである。こうして、駒大苫小牧は1933(昭和8)年の中京商(現中京大中京)以来の3連覇に挑むこととなったが、ハンカチ人気もあって決勝の舞台ではすっかりヒール役が与えられることになってしまった。
それでも、両校は期待にたがわぬ好試合を展開した。お互いに8回に1点ずつを取り合ったが、その後はともに得点することが出来ず、延長15回で大会規定により引き分け再試合となった。決勝の再試合は、第51回大会の「松山商・三沢」以来の37年ぶりのこととなった。
再試合でも早稲田実は斎藤が先発し駒大苫小牧の田中も先発こそ回避したものの初回二死で1点を失ってから登板することとなった。こうしてまた二人の投げ合いとなったが、斎藤は無四球13奪三振で被安打6、3失点の完投。優勝投手となって、まさに甲子園のヒーローとして頂点に立った。
今も球児から絶大の人気を誇る、Vコング02
田中の同期としては、堂上が4球団強豪の末に中日が当たりくじを引き1位指名で入団しているが、クジを外した巨人の外れ1位は光星学院(現八戸学院光星)の坂本勇人だった。この年は高校生と大学・社会人の分離ドラフトとして開催されて2年目だったが、他の1位指名を見てみると、広島がPL学園の前田健太を指名している。他にはロッテが八重山商工の大嶺裕太、田中を外した日本ハムは広陵の吉川光夫を指名している。
日本ハムは、南北海道大会準決勝で田中と投げ合った北照の植村祐介を3巡指名、センバツで斎藤と投げ合った関西のダースローマッシュ匡を4巡で指名している。また、横浜が3巡指名で開星の梶谷隆幸を獲得している。中日も横浜の福田永将を捕手として指名している。梶谷と福田は、今ではすっかりチームの中心として活躍している。
プロ野球界を牽引する、1988年世代が高校生だった2000年代に入ると、ミズノから革命的なバットが現れる。その名は『Vコング02』。今もなお高校野球界で高い人気を誇る『Vコング02』だが、当時は規格変更によってバットの重さを900g以上にしなければならないという時代背景があった。加えてミズノは今までに比べて強度などが優れた素材の採用、さらに先端のキャップの形状の変化による振り抜きの良さを追求。その末に作り出されたのが、『Vコング02』だった。
さらにバットだけでなく、スパイクでは軽量化を求める動きがあった。ミズノではその流れに乗るために、金具を取り付けができるタイプから埋め込みのタイプが中心となっていった。取替えができなくなった分、金具の耐久性が向上されたことも大きな変更点である。
また、2000年代初頭のポケット形状を採用するというコンセプトで開発されたグローブといった今までの時代の道具をベースとして、改良もしくはユーザーの声に応えるべく新シリーズの展開を始めたミズノ。それを象徴する新シリーズが、2010年代ごろから展開されるようになったのだった。
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文=手束仁