目次

【目次】
[1]投手として名を轟かせた高校時代
[2]高校野球の歴史における大きな一歩

投手として名を轟かせた高校時代

 太平洋戦争が終焉して10年以上が経過して、「もはや戦後ではない」と言われたのが1956(昭和31)年である。それは、日本がその後に迎える高度経済成長への助走の始まりでもあったのだ。時代としては石原慎太郎が『太陽の季節』を引っ提げて青年作家としてさっそうとデビューし、新時代の到来を告げていた。

 その年に高校生として早稲田実業に入学したのが、現在のソフトバンクの王貞治会長である。早稲田実業を卒業後は、巨人で活躍して世界の本塁打王となり、引退後は巨人監督、さらにはダイエー・ソフトバンク監督を務めて、日本一にも輝いたということは周知のことだが、その時代は高校野球にも新しい波が押し寄せてきていた。

 王自身は1年夏と2年の春夏、3年の春と甲子園出場を果たしている。しかし、高校最後の夏は東京大会決勝で明治に敗れて甲子園出場を逃している。投手だった王は、そのピークは実は2年生だった。その証拠に、2年春に出場した57年センバツでは寝屋川柳井久留米商と3試合連続完封で、決勝でも高知商を下して全国制覇を果たしている。

 さらに、夏も出場すると、春に続いて対戦した寝屋川相手に延長11回を無安打に抑えるノーヒットノーランの偉業を果たしている。なお、この大会では県立岐阜商の清沢忠彦投手も初戦の津島商工(現津島北)相手にノーヒットノーランを達成している。一大会でノーヒットノーランが相次いだという年でもあった。

 しかし、両校ともに準々決勝で敗退。優勝したのは27年ぶりに広島商が4度目の日本一となった。折しも、広島市が被爆して12年、5歳の時に被爆した選手たちが中心になっての優勝だったということも、今後の日本の右肩上がりの発展への勇気となった。

 広島商の決勝の相手は法政二だったが、この年から5年連続優勝を果たすなど、全盛期を迎えることになる。その法政二の頂点は60年夏と翌年春で、後に巨人で赤い手袋の盗塁王として王 貞治、長嶋茂雄(佐倉→立教大)らとともに活躍する柴田勲投手がいて、浪商の尾崎行雄(その後、東映)とともに東西の怪物として騒がれた時代でもあった。

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