ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に出場する侍ジャパンのメンバーは、日本のプロ野球界を代表するスター軍団である。特に今年はエンゼルス・大谷 翔平投手(花巻東出身)や、パドレス・ダルビッシュ 有投手(東北高出身)、レッドソックス・吉田 正尚外野手(敦賀気比出身)など、メジャーからの参戦もあり、いずれもが球界の看板を背負っている選手たちだ。
そんな中で、育成ドラフト指名からわずか1年で選出された選手が、オリックスの宇田川 優希投手(八潮南出身)だ。埼玉県の普通の公立校、八潮南から仙台六大学野球連盟の仙台大へ進学し、そこで評価されて2020年の育成ドラフト3位でオリックスに入団。2年目の7月から支配下選手となると、150キロ台後半の直球と落差の大きいフォークで、ここぞという場面で三振を奪えるという救援投手として結果を残して大躍進した。
圧巻だったのは日本シリーズで4試合に登板して無失点。1勝2ホールドという結果を残した。それが評価されて、侍ジャパンにも招聘された。
高校時代の恩師、齋藤繁・越谷東監督に、八潮南時代の宇田川について聞いた。(文/手束 仁)
無名だった中学生がメンタルの成長でチームのエースに

宇田川 優希 写真:日刊スポーツ/アフロ
高校入学前、つまり中学時代の宇田川は埼玉県内でもまったくの無名選手だった。細身で、背は高く180センチ以上はあったが、体重は70キロにも満たなかった。主戦投手ではなく、試合では捕手を務めることが多かった。齋藤監督はかねてから交流のあった越谷西中に「越谷選抜にも選ばれたいい投手がいる」ということで別の投手を見に行った。その時には宇田川の印象はほとんどなかったという。だから、宇田川が入学してきて、新入生の挨拶で、「自分は、この八潮南でエースになりたいです」ということを言ったのには驚いたようだ。
越谷西中の指導者に宇田川は投手としてはどうだったのかと尋ねてみたら、「ポテンシャルは高いかもしれないけれども、制球もよくなく、独り相撲を取ってしまい試合を作ることができないので、監督としては公式戦では使いづらい」ということだった。だから、齋藤監督も当初は特に投手として意識はしていなかった。
ただ、入学して2、3カ月くらいの練習試合で、いわゆるB戦と言われる控え選手たちの試合ではあったが、上尾を相手に2失点完投したという報告を、引率した市川大祐コーチ(現川口市立)から聞いた。それで、投手として育てていっても面白いかなと考えるようになった。しかし、その後は、もう一つ結果も出し切れず、夏のメンバーにも入ることはなかった。
宇田川は能力はあるけれどもムラッ気のある、まったく普通の投手だった。それでも、1年生夏の合宿ではノルマの3杯どんぶり飯をペロリと平らげるなど体づくりにも尽力していって急成長した。
齋藤監督は、自身の指導方針としてはいつも生徒たちに、「勇気をもって挑戦する気持ちと、夢、希望を失うな」ということを言っている。それは、何度も何度も口を酸っぱくして伝えていることである。技術的なことよりも、とくに「チャレンジしていく」という姿勢には拘って指導してきた。だから、体づくりも含めて、宇田川の挑戦していく姿勢に、齋藤監督自身も目が向いて行った。
そして、2年秋からの新チームでは、いつの間にか当初エースに予定していた越谷選抜にも選ばれていた投手を差し置いて、宇田川が投手としての柱となっていた。当時の球速そのものは130キロちょっとくらいだったが、そこから翌年の夏へ向けて成長したのは技術面よりもA4用紙1枚の投手チェックシートを記入していくことで、メンタル面を成長させていったことが大きかった。
そして夏には、かつては「宇田川が投げているときにエラーすると、顔を見られないくらいに怖かった」と言われていたのが、どんなピンチでも笑顔で仲間の野手たちとマウンドで話せるようになっていっていた。それは、まさに精神的な要素の成長が、宇田川 優希という投手を一回りも、二回りも大きくしていったという証だったのだ。
齋藤監督は常々「三者凡退で抑える投手よりも、無死満塁を無失点で抑えられる投手の方が凄いんだ」ということを伝えている。それは、苦しい時にこそ、冷静に自分の投球ができる投手であれということなのである。
その教えは、宇田川3年の夏の結果を見てもわかる。結果的には3回戦で敗退となるのだが、1回戦は杉戸に15三振を奪い完封勝ちしているが、安打は7本打たれている。そこそこ走者は出しながらも、しっかり抑えていたということである。
2回戦の北本との試合は先発した2年生の投手が初回に3点を奪われたことでロングリリーフ。そこから、チームも逆転して7対6の辛勝。そして3回戦は、シード校の正智深谷に初回2点を失いながら以降は抑えて延長15回引き分けとなっている。しかも、9回以降は毎回1死二塁という場面となりながらも、そこから堪えているのは、22年の日本シリーズでの粘投を彷彿させるものといってもいいのかもしれない。再試合では力尽きて敗れたが、宇田川の存在はメディアでも取り上げられ、評価は上がっていった。