高校生・松田宣浩(岐阜・中京出身)は熱男ではなかった?!恩師が語った意外な一面
ホームランを打った後のパフォーマンスとして見せる「熱男―!」で、野球ファンだけではなく多くの人たちに認知される福岡ソフトバンクホークス・松田宣浩選手(中京出身)。
2005年のドラフトで入団すると、2011年に初めてゴールデングラブ賞を受賞すると、2013年から7年連続受賞。2018年にはベストナインに輝くなど、名実ともに球界を代表する選手だ。そんな松田選手はどんな高校生だったのか。監督として3年間見守ってきた小嶋雅人さんにお話を聞かせてもらった。
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見た瞬間にプロになることを確信した。恩師が語る松田宣浩(岐阜・中京出身)の高校時代
良さも課題も残した甲子園での悪送球
福岡ソフトバンクホークス・松田宣浩選手
課題だった守備は亜細亜大での経験や、日々の鍛錬で磨きをかけた松田選手。一方のバッティングは、ウリでもあったライナー性の打球を飛ばすバッティングを崩すことはしなかった。ただ、時々見せる身体の開きにより不調に陥ることがあったとのこと。
その時に課した練習がセンターライナーを打つことだった。
「ノックバットでセンターライナーを打つには、開いてしまうとバットが出ないので、打てません。また上からバットを出してヘッドを立ててボールを叩かないと、真っすぐ伸びる打球は打てません。それくらい極端なことをやらせましたね」
また松田選手と言えば、逆方向にも鋭い当たりを飛ばしていくのも印象的。その基礎となった技術は中京時代にあることがわかった。
「冬場には木製バットを使って、緩いボールを逆方向に打たせるように練習するんです。その時に木製バット独特のしなりを感じながら打つように指示をしましたが、それでチーム全体的に広角に打てるようになりましたが、松田もできるようになりました」
小嶋さんの指導を受けて成長した松田選手は2年生の夏、岐阜大会を勝ち上がっていき悲願の甲子園へ。初戦は沖縄代表・那覇と対戦し、試合は1点を巡る緊迫の一戦となる。
5回に先制するものの、7回に追いつかれ延長戦へ。そして11回、那覇が勝ち越しの1点をもぎ取り、ゲームセット。全国での1勝を惜しくも逃す結果となったが、そこに関わったのが松田選手だったのだ。
「外野に抜けてしまうような打球が三遊間へ飛びまして、それを守備範囲の広い松田が追い付いたんです。ただそれを高めに暴投してしまったんです。先輩たちは『あの位置で捕球して投げられたのはあいつだけだ』と責めなかったんです。ノブだから捕れて投げられたんだと」
[page_break:熱男ではなかった主将・松田宣浩]熱男ではなかった主将・松田宣浩
監督として岐阜・中京時代の3年間見守ってきた小嶋雅人さん
先輩たちから責められることはなかったものの、決勝点を自らのミスで与えたことに、当時の松田選手は相当ショックを受けていたとのこと。だからこそ、新チームがスタートしてからは、一層守備に磨きをかけるようになった。
「甲子園では悪い体勢で投げて悪送球になりましたが、それではダメだと。身体能力で見ればアウトにできるから、ギリギリのプレーの精度を高めて、きちんとアウトを取れるようにしていこうと言うことになりました」
甲子園が終わると、最上級生になった松田選手。変わらぬ高い意識と、練習への取り組み方で、より技術が上達。特に学校の協力もあり、雨天練習場やトレーニング施設が充実。野球に集中できる環境がより整った。
また、新チームからは主将に就任。チームをまとめる立場となったが、当時の松田選手は決して現在のような盛り上げるタイプではなかったそうだ。
「声を出してまとめるのではなく、行動やプレーといった背中でチームをまとめる感じだったんです。今のようになったには、川崎 宗則さんからチームのムードメーカーを任されてからだと思います」
主将としてチームをまとめていきながら3年生に進級すると、1年生として城所 龍磨(元福岡ソフトバンクホークス)らが入学。のちに明治神宮大会を優勝する年代で、松田選手の活躍を見て入部してきた世代とともに、甲子園を目指す日々を送るが、なかでも城所さんと常に一緒にいたと小嶋さんは笑みをこぼしながら振り返る。
「12時くらいまでなら練習することを許していましたが、時間になっても照明がついているので見に行くと、雨天練習場かトレーニング施設に松田はバットをもって必ずいました。そこに城所がくっついて一緒に練習しているんです。それくらい練習をしていました」
(記事=田中 裕毅)