「自分で考える子」 恩師が語る吉田正尚(敦賀気比-青山学院大-オリックスバファローズ)への想い
11月2日に開幕するプレミア12で侍ジャパンに選出された吉田正尚(オリックス)。今季はリーグ2位の打率.322、自己最多の29本塁打を記録するなど、充実のシーズンを送った。
身長173㎝と決して大きくない体から強烈なフルスイングで本塁打を量産する姿に憧れを抱く野球少年は数多い。高校時代に吉田を指導した敦賀気比の東哲平監督に彼の高校時代について話を伺った。
入学早々から抜群の長打力を発揮し4番へ
高校時代の吉田正尚
東監督が吉田を始めてみたのは中学時代に鯖江ボーイズでプレーしている時だった。
「体が小さいのに力強くボールを飛ばせる技術が半端なくあったので、ちょっと衝撃を受けましたね。中学生でも体が大きかったら飛ばす子はいるんですけど、小さい体からフォローも大きくて、遠くに飛ばせるのはなかなかいないんですよ。見た時はビビりましたね」
東監督の話によると、当時の身長は170㎝にも満たなかったそうだが、その体から放たれる長打力に驚かされた。
吉田自身が敦賀気比への進学を希望していたこともあり、すんなりと入学が決まった。東監督は吉田と初めての会話で「1年ですぐに4番を打つ準備をしておいてくれ」と伝えたという。まだ入学していない中学生にかける言葉としてはかなり重いものではあるが、それだけ期待していたことの裏返しであったことは間違いない。
実際に入学すると、打撃練習で驚くほどの快打を連発。東監督が敦賀気比でプレーしていた時には同期に東出輝裕(現・広島一軍打撃コーチ)がいたが、打撃ではプロに進んだ東出以上の素質を見せていたという。
「フリーバッティングをさせたら、木製バットでもプロに引けを取らないバッティングをしていました。バッティングだけを見たら、東出のレベルをはるかに越えていましたから。プロに入ったらみんなびっくりするだろうなとは思っていました」
ただ、吉田がプロ入りを目指すにあたって、東監督が懸念していたことがあった。それが身長の低さだ。現在ではホセ・アルトゥーベ(アストロズ)や森友哉(西部)のように身長が低くても、強くバットを振れる強打者が日米ともに存在するが、当時はまだそういった選手の活躍が目立っていなかった。
吉田についても能力に関してはプロでもやれるという確信を持っていたが、「身長が低いからプロに行けないというのはあり得るのかなというのはありました」と不安視していた。それは吉田だけでなく、広島で活躍している西川龍馬についても同様のことを思っていたそうだ。
小柄ながらも入学早々から抜群の長打力を発揮し、監督の期待通りに1年生から4番に座った吉田。1年夏の福井大会では13打数8安打で打率.615と打ちまくって、甲子園出場に大きく貢献した。入学前から期待を寄せいていた東監督も「1年の時は期待以上でしたね。怖いもの知らずなところが出ていました」と話すほど想像以上の好結果だった。
早くからチームの主軸として活躍してきた吉田は1年夏と2年春に甲子園出場を果たす。1年夏は初戦敗退するも、2年春は1回戦の天理戦で3安打を放つなどの活躍を見せてベスト8進出に貢献。順風満帆な高校野球1年目を送ったが、それに驕ることなく、黙々と努力を重ねていた。東監督も吉田を指導する中で特に注意することはなかったそうだ。
「努力する子なので、そんなに何か言ったというのはないですね。本当に自分で考える子だったので、特に『あれしろ、これしろ』とは言わなかったです。バット振ることに関しては自分でやっていました」
更なる高みを目指して黙々とバットを振り続けていた吉田だが、高校野球生活後半はスランプに悩まされた。
「2年の後半くらいからけっこう苦しんでいました。かなりマークされていたと思いますし、勝負もなかなかしてもらえなくなって、焦りから打撃を崩すことはありましたね。最後はスランプになって、悔しい気持ちで高校野球を終わったと思います」
[page_break:高校野球生活の後半戦は苦しいものに/極力、吉田の話は選手にしない]「生きた見本」から学び、自ら手本に
敦賀気比・東哲平監督
1年生から強豪校の4番として、活躍していた吉田は当然のように他校からマークされた。簡単に勝負してもらえなくなり、徐々に自分の打撃を見失ってしまった。2年夏以降はチームも甲子園にできず、高校野球生活の後半戦は苦しいものとなったが、それも本人の成長のためにはプラスになっていたと東監督は話す。
「良いこともあれば悪いこともある。ただ、その悔しさが彼の努力に繋がった。全てが彼の経験が今になっていると思います。上手く行き過ぎた野球人生だったら努力しないですからね。苦しんだ分、大学でまた努力できたと思います。その時はかなり苦しんだのでしょうけど、彼の野球人生にとってはプラスになったんじゃないかなと思いますけどね」
高校の時点でプロ志望届を出さず、卒業後は青山学院大に進んだ。ここでも1年春から4番に座り、いきなりベストナインを獲得。2年生からは侍ジャパン大学代表にも選出されるようになり、名実ともに大学球界を代表する打者に成長を遂げた。代表でも4番を打ち、U-18代表との壮行試合では2打席連続本塁打を放ち、その長打力を世間に大きくアピールした。
そして、2015年のドラフト会議でオリックスが1位指名を受け、プロの世界に足を踏み入れることになった。大学で確固たる実績を残したことで東監督が以前から「プロに行けないのでは」と懸念していたことも杞憂に終わった。これで多くの人を驚かせるほどの活躍をしてくれると、東監督は期待していたという。
「1位で行けるかは心配していましたけど、プロに行けるのは間違いないのはわかっていました。何位で入ろうとみんなビックリするだろうなとは思っていたので、これでやっとアイツの凄さがみんなわかるんじゃないかなと思いました」
極力、吉田の話は選手にしない
オリックス入団後は1、2年目こそ怪我による離脱があり、出場機会が限られたが、その中でも2年連続で二桁本塁打を記録。並外れた打撃力を1年目から見せつけた。3年目の昨季からは全試合に出場できるようになり、昨季は26本塁打、今季は29本塁打と着実に成績を伸ばしている。東監督は早くから活躍できた理由に入った球団に恵まれていたのではないかと話す。
「怪我が治って、すぐに使っていただくことは、他の球団ではなかなかできないことです。そこは球団の方針に恵まれていたと思いますし、起用してもらえるなかで吉田は上手くアピールできたのかなと思います」
吉田を即戦力として期待していたオリックスだからこそ、試合に出られる状態であれば、スタメンで使ってもらえていたと東監督は感じているようだ。吉田も首脳陣の期待にしっかり応え、チームの看板打者として欠かせない存在となっている。
彼のような偉大なOBの存在は敦賀気比の選手たちにも刺激になっていることは間違いないだろう。しかし、東監督は当時の吉田についての話はあまりしないようにしているそうだ。
「極力、自分たちで打破できるようになってほしいです。あまり言いすぎると良くない。自分できっかけを作れるようにならないと、ダメだと思っています。自分で考えて、課題を克服してほしいなというのはありますね」
プロに進んだ選手が当時はこうしていたと話すことで参考になることは多いが、それを鵜呑みにしすぎてもいけないと東監督は考えている。吉田も指導者から口酸っぱく指導されるのではなく、自分で考えて努力できる人間だったからこそ、今の姿がある。自ら考えて成長する風土が敦賀気比にはあるのだ。
最後に日の丸を背負う教え子に対して、東監督はこう激励の言葉を述べてくれた。
「日本を代表するようなバッターになっているのは間違いないです。日の丸を背負うことは軽いことではないので、日本の代表として持っている自分の力をすべて出して頑張ってほしいなと思います」
プレミア12ではもちろん、来年の東京五輪でも中心打者としての活躍が期待されている。豪快なスイングで世界を驚愕させるような打撃を見せてほしい。
(取材・文=馬場 遼)