今年、94勝49敗と圧倒的な成績で、パ・リーグ優勝を決め、さらに日本シリーズ進出した福岡ソフトバンクホークス。その戦力としてブレイクしたのが石川 柊太投手だ。入団4年目の今年、150キロを超える速球と独特なまがりをするカーブを武器に、今年は先発・中継ぎを中心に34試合に登板。8勝3敗、防御率3.29と好成績を上げた。そんな石川投手の高校時代を知るべく、都立城東(1999年夏)を甲子園に導き、現在は都立総合工科の有馬 信夫監督に当時の石川投手について聞いた。
入学当時から別格のストレートだった

石川投手の恩師・有馬 信夫監督(都立総合工科)
「私が柊太(石川)を初めて見たのは入学当時だったのですが、柊太の代は結構投手が多かったのですが、柊太が潜在能力が高い投手だったことは覚えています。体もひょろひょろだったのですが、手が長いですし、ストレートが手元でグッと伸びる投手でした。ボールの質は同期と比べても別格でした。まだそのとき、私は監督ではなくて、当時監督だった千葉 智久先生に、『あいつ(石川)で甲子園いけるぞ』といったことは覚えています。
有馬監督は、石川を甲子園に導く存在になると期待を込めて指導。コントロール、配球などを指導する。しかし当時は体も細く、故障がち。ボールは速くて、伸びがあってもコントロールがなかなか改善されない。下級生の時は結果を残せず、2年秋には登板直前に肘を痛め、9月から11月までは登板できない状態だった。
「当時は柊太以外に投手が結構いましたし、ほかの投手も頑張っていました。なので、柊太を無理させることなく、育成することができました。復帰してからは、柊太にエースになってほしかったのですが、あまり投げていなかったというのもあって、信頼はなかったですね。春から復帰し、投げていましたが、完投させるには不安がありました。もちろんエースは先発完投が理想でしたが、彼と同期に、芦田 大介という右のアンダースロー投手がおりました。芦田はコントロールが抜群に良く、メンタルも強い投手で、後ろを任せるには絶好の投手だったんです。だから石川がいけるところまでいって、芦田が後ろに投げるというパターンでしたね。」
3年春の都大会(2009年)は石川は5試合中、3試合が先発登板。完投は1試合もない。ベスト8まで進み、チームとしてはてごたえをつかんでいた。
「投手も枚数いましたし、野手もすべてのポジションに、力のある選手が多くいました」
甲子園に行くために臨んだ最後の夏。石川が先発して、芦田がリリーフするというパターンは春と代わりなかったが、石川は4回戦の高輪戦で完封勝利を挙げるなど、少しずつ信頼をつかんでいた。