石川 歩投手(滑川-千葉ロッテマリーンズ)進路志望が「プロ野球選手」に変わった日【前編】
惜しくも準決勝でアメリカに敗れてしまった侍ジャパン。だがそれまで無敗と、素晴らしい戦いを見せてくれた。その勢いを生んだのは、WBC開幕戦という最も重圧のかかるマウンドを任された石川 歩の好投ではないだろうか。結果は4回を投げて2安打1失点。先発として試合を作り勝ち投手となった。その石川は中部大学、東京ガス時代はどちらも全国クラスの投手として注目を集めたが、富山滑川高校時代は無名の存在だった。
同世代の田中 将大(関連記事)や坂本 勇人(関連記事)らが甲子園で活躍する一方、高3の6月の時点でさえ口にした希望進路は「古着屋の店員になりたい」というものだった。日の丸を背負う現在の姿に当時は石川が在籍していた富山滑川で野球部部長を、現在は富山中部で卓球部の顧問を務める土井 聡先生は「もうびっくりですよね。笑っちゃいますよ。プロ入った時からそうですけど」と喜びの入り混じる驚きを隠せない。普通の公立校の普通の投手でしかなかった石川はどのような3年間を過ごしていたのだろうか。土井先生に話を伺った。
第一印象はひょろっとした子
土井 聡先生(富山中部)
「初めて彼を見たのは中学校3年の時だと思います。中学校最後の大会を観に行ったんですよ。なんかひょろっとしてるな、という印象ですよね。高校入学の時で身長は178cmぐらいかな。体重は56kgしかなかったんですよ、マッチ棒ですよね。中学時代に評判の好投手ということでもなかったと思います。もしそうなら富山商業や富山第一に行ってしまうので。石川の代で入部してきた子が10人だったかな。上の代が9人しかいなくて近年の富山滑川高校で1番部員が少なった時代です。
そういうこともあったので、1年生の最初の頃から練習試合では出番をもらってましたね。ベンチ入りは秋からです。本人はどう思ってるかはわからないですけど、上のピッチャーがコントロールが悪かったので、エース格のような扱いを受けていたと思います。2年生の夏に背番号11をもらった時に不満そうだったのをよく覚えてます。1をつけたのは2年の秋からですね。3回戦で負けるんですけど、初めて1をつけたのはその秋だと思います。
当時から全くガツガツしてるところも無くて。そういうのはあんまり変わってないんじゃないかな。あいつ、野球で泣いたことあるのかな。最後の夏も泣いてたかもしれないけど、多分さらっとしてたんじゃないかな。悔しいとかはもちろんあったと思うけど・・・あ、1回だけ涙を見たことあるのは2年の夏に背番号11番をつけて、氷見という甲子園を狙えるような重量打線のチームとやった試合ですね。
先輩のピッチャーが打たれて2番手で登板して、ホームラン含む長打3、4本打たれたんじゃないですか。おもしろいように外野に打たれてノックアウトで。その時にベンチ裏で泣いてました。その試合は3番手のピッチャーも打たれてコールド負けしたんですけど、マウンドを降りてベンチ裏で1人でメソメソしてて『また次があるからな』と言って、話したのを覚えてます。そういえば(泣いてるところを)見ましたね。貴重ですね(笑)」
「やっぱり思い通りに行かなかったことが悔しかったんだろうと思います。それと辻褄が合ってくるのは、秋も中盤まで抑えていて長打を打たれて負けちゃうんですけど、そこでこれじゃダメだと秋からオフにかけてのトレーニングは頑張ったんじゃないかな。石川君なりに頑張って春の躍動感につながっていったかな。春に関西遠征に行ったんですけどそこでは全身使ってきれいなフォームで投げている印象がありますね。
練習試合はピッチャーを育てるのが上手な監督さんのいるチームと組むことが多かったんです。遠投している姿を見て、『いいピッチャーですね』と言ってもらえるようになりました。そこにつながっていく、と言えばそうですね、あの涙がね」
希望進路は古着屋の店員?
石川 歩(千葉ロッテマリーンズ)
「石川が登板する時は毎回やるんですけど投球練習終わったらマウンドの横で3回ぐらいジャンプするんですよ。あれは中学校の時から変わってないかな。あの子のルーティンなんだろうと思いますね。投球スタイルは高校生の時はストレートはそこそこ速かったんですが、よく言われたのは、ボールが軽い、ってこと。だからけっこう飛ばされちゃう。当時シンカーは無くて。遊びで投げてるのを見たことはありますけど、公式戦では1球か2球ぐらい。ストライク取れるようなボールじゃなかったですね。
今も使ってるタテの大きなカーブ、あれに近いボールは高校時代からあったと思います。大学でさらに良くなってましたね。高校時代1番良かったボールはスライダーだと思います。斜めスライダーみたいな感じのあのスライダーはそう簡単に打たれなかったと思います。そんな感じだったからストレートが甘いとこに来ると結構打たれていたので、弱いチームには強い。強いチームには打ちごろになっちゃってましたよね。
それが3年の春ぐらいから責任も任されるようになって、6月に県立岐阜商業に行ったんです。近大附と変則の試合だったんですがそこで好投したんですよ。それが彼にとって良かったみたいです。その頃、進路どうする?と聞いたら当時は『古着屋の店員になりたい』って言ってました。高校3年の6月にですよ。いないですよね、そんなプロ野球選手。だからその頃にはプロ野球選手なんて自分でも全く思ってなかったと思います。メディアには服飾関係の仕事に就きたいって書いてありますけど、あいつの言葉で言うと『古着屋の店員になりたい』って言ってました」
セレクションで堀田コーチが絶賛
石川 歩(千葉ロッテマリーンズ)
「でも夏の2回戦の試合に日本ハムの大渕スカウトが来ていて名刺をもらって、それを石川に見せるとキラッと輝きました。それは間違いなく上でやろうかなっていう原動力になったと思います。だから大渕さんにはホント感謝してます。僕の考えでは野球が上手で野球が大好きで家庭の経済力も許されるのなら、硬式野球を少しでも長くさせてあげたい。それで大学でやってみないか、って。コネも何もなかったんで夏までズルズルいって、7月下旬になってどうしようかってなった時に、石川もやっぱり上でやりたい、と。古着屋の店員になりたいって言うかと思ってましたがそこでやりたい気持ちがあるって言ったんで。それと少し上のレベルでやりたいと。
じゃあ愛知県なんかどうだって言ったら、多分愛知県や中京地区の印象が良かったんですね、県立岐阜商業で好投してるから。単純なんで(笑)。ひょっとしたらその空気が合ったのかもしれない。愛知県でたまたま仲良くさせてもらっていた誠信高校の沢田 英二監督に電話したら、沢田監督はものすごく記憶力の良い方でうちのピッチャーなんですけど、と言ったら新チームの8月に練習試合したことを覚えてくれてて、『ひょろっとした子でしょ。ああいうタイプのピッチャーを好きな監督さんいらっしゃいますよ。今日たまたまその監督さん(当時中部大で指揮をとっていた善久 裕司監督。現在は総監督)と会うので話しときましょうか。セレクション受けるだけやったら受けれますよ』っていう話をしてくれたんで、お願いしますと言ってセレクションを受けることになったんです。
だから石川は富山滑川よりも誠信高校によく行くんですよ。足を向けて寝られない、自分の人生変えてもらったと思ってるから。誠信出身の子と仲が良かったというのもあるんですけど、学生時代も教えに行ったりね。そんなことがあって8月に中部大にセレクションを受けに行く。それで後になるんですが善久監督、それから今は監督で当時コーチだった堀田 崇夫さんとお酒を飲みに行った時にどんな印象だったんですかと聞いたら、堀田さんは『こんな子がホントにうちに来るんですか?欲しいって言ったら来るんですか?』って素晴らしい評価をしてくれて、監督に推してくれて。
その時ブルペンで137キロぐらい出ていて、高校時代の最高球速で覚えてるのは142だと思います。本人は違うって言うかもしれないけど、140ちょっとだったと思います。セレクションが終わった後に善久監督から『先生ぜひ。また連絡します』って言われたんですが、それからけっこう長くてヤキモキしたんですけど、お盆過ぎぐらいに合格が来て。それで大学に行くことになっちゃったんですよね。古着屋のはずがね(笑)」
こうして大学進学が決まった石川投手。後編では大学進学してからのストーリーを紹介していきます。
(取材=小中 翔太)
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