声出し応援の甲子園も、甲子園中止も両方味わった神村学園OBの東農大遊撃手が振り返った高校3年間
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今年5月8日から新型コロナウイルス感染症の位置づけは「5類感染症」となった。法律に基づき行政主導の仕組みから、国民の自主的な取組をベースとした対応に変わった。夏の甲子園も生演奏、声出しが解禁となり、伝統の甲子園らしさが戻ってくるだろう。そんなタイミングだからこそ、今もう1度当時の高校野球を考えてみたい。甲子園が中止になった3年の月日がたった今、当時の球児は何を考えているのだろうか。
現在、東京農業大の主力遊撃手として活躍する古川 朋樹内野手は神村学園(鹿児島)時代、2019年に夏の甲子園を経験。つまり、声出し応援があった通常通りの甲子園でプレーし、コロナ禍で中止になった時も知っている選手である。今、東都2部復帰に向けて奮闘している古川に当時の話を伺った。
「やはり声出しがある甲子園は雰囲気が違います」と振り返った古川は甲子園を目指して、地元の佐賀を出て、神村学園に飛び込んだ球児だった。
佐賀ヤング藤本BBCでプレーした古川は、神村学園の関係者の目に留まり、そして、小田監督もチームの練習に訪れ、誘いを受ける。
「寮生活だというのは知っていましたし、覚悟を持って入学を決めました」
実際に入学するとハードな環境だった。寮はグラウンドのすぐ隣にあり、「常に野球と隣り合わせな3年間でした」と振り返る。
外出は週1回。1時間スーパーに行くことができて、携帯を使用できるのは1日30分。もちろんネット記事をみる余裕はない。「高校野球ドットコムさんをよく見るようになったのは、高校野球が終わってからです」と笑う。それでも下級生から主力選手となり、2年夏に甲子園出場を果たす。
当時は、桑原 秀侍投手(ソフトバンク)、田中 瞬太朗投手(城西国際大)と錚々たるメンバーがいた。新チームになれば古川は主将に。センバツを逃してしまったが、夏の甲子園出場へ向けて、厳しい冬の練習に励んでいた。
そんな時、世界の情勢が変わっていた。新型コロナウイルスの影響でセンバツが中止になったのだ。
「このまま夏の大会はどうなるのかなという不安が大きかったですね」
神村学園では寮生活だった選手たちは地元には帰らず、寮から一歩も出ない形で、そして誰も入れない形で生活を行っていた。
「全体練習はなく、各自で自主練習で、長い練習時間は禁止されていたので、練習が終わると、学校から課題を与えられていて、その課題をこなしていましたね」
そして5月20日、全部員が集まり、小田監督から夏の甲子園の中止が決まったことが告げられていた。
「その前から中止になるかもしれないという話を聞いていたんですけど、いざ中止になってみたら、今まで、きつい思いをしてきたのは何だっただろう」と失望感を味わった。
そこから鹿児島では独自大会が開催されることが決まり、古川は3年生で大会に出たいと小田監督にお願いした。
「この大会は3年生21人で戦いたいと自分から告げました。監督さんからOKをもらいましたので、そこから3年生全員で『優勝しよう』と言い合いながら練習をしました」
3年生21人で臨んだ鹿児島独自大会は見事に優勝を決めた。当時、プロ注目だった桑原が二刀流として大きく活躍したのも大きかった。甲子園には繋がらなかったが、達成感はあった。
「甲子園はなかったですけど、夏の大会を戦い抜けたのは嬉しく思います。その反面、甲子園がどこまで勝ち進めたのかという思いはありました」
ちなみに古川は決勝戦前日の練習でケガをしてしまい、試合には出られなかった。ナインは古川のために優勝しようという機運になっていた。
「半月板が切れてしまって、決勝戦の翌日にすぐ病院にいきました。いろいろあった夏だったと思います」
鹿児島独自大会は古川にとって大きかった。すぐに大学でも野球をやろうと気持ちを切り替えることができた。
そこから東都リーグで切磋琢磨する東京農業大でプレーすることが決まった。
「関東圏の強い学校でプレーしていた選手たちが多く、レベルが高いなと感じています」
この春は東都2部で主力としてプレーし、遊撃手のレギュラーになった。しかし、チームはこの春、東都2部最下位となり、入れ替え戦も大正大に負け越し、3部降格になった。古川は東都のレベルの高さに刺激を受けながらも、秋に最短で2部昇格。そしていずれは1部昇格を目指して奮闘している。
「高いレベルで野球ができていて、再び優勝して2部復帰したいと思っています」
後輩たちの活躍は動画を通して見ている。この夏、神村学園は鹿児島大会決勝戦でタイブレークまでもつれる試合展開になり、サヨナラ勝ちで甲子園を決めた。神村学園としては古川たちが出場した4年ぶりの甲子園である。声出し応援もあった甲子園の素晴らしさを知っている。だからこそ古川は「楽しんでほしいです」とエールを送った。