コロナがあったからアメリカでプレーしているかもしれない…クラーク記念国際のOBが語った当時の状況

今年5月8日から新型コロナウイルス感染症の位置づけは「5類感染症」となった。法律に基づき行政手動の仕組みから、国民の自主的な取組をベースとした対応に変わった。夏の甲子園も生演奏、声出しが解禁となり、伝統の甲子園らしさがもどってくるだろう。そんなタイミングだからこそ、今もう1度当時の高校野球を考えてみたい。甲子園が中止になった3年の月日がたった今、当時の球児は何を考えているのだろうか。
当時クラーク記念国際で3年生だった、野坂 竜之介さんに話を聞いた。
「最初にすごく残念な思いでした。3年間、甲子園のためにやってきたというのはあります。ただ一方で、寮生活ですごく拘束されている時間が多かったので、もしかしてこれで地元にもどれるんじゃないかという思いもあったりして、チームが一時、浮ついている感じになったのは覚えています」
コロナで夏の大会が中止を知った時のチーム状態を話してくれた。
「コロナ禍で自主練などしながらすごしていました。それでもコロナで大会中止を知った後は、自主練する人の数も少なくなった気がします。練習に身が入らないような感じでした。なんのために練習しているんだという雰囲気もありましたし、人によっては、もう中止になったんだから、早く(寮生活を終えて)家に帰ろうぜ、みたいな話をしている人もいました」
コロナは収まる様子もない。不確実性が増す中で甲子園という目的を信じて自主練などで気持ちを繋いできた。遊びたいざかりの高校生が、寮生活をしながら、すべての時間を野球と学業にささげてきた。それでも、寮と学校を行き来し、思いっきりグラウンドを走り回れるならまだしも、当時はコロナ禍で寮から出られない。寮からオンラインで授業に出て、そして制約された中で自主練をするのみである。そんな切れそうな思いを繋いでいた甲子園がなくなったのである。荒れたくもなるし、どうでも良くなってしまうだろう。
では、野坂自身はどのように感じていたのだろうか?
「先輩たちが2年連続決勝で敗れていたので、甲子園出場という使命を果たすという中で練習してきたので、それが苦になっている部分もあったと思います、それと甲子園がなくなって普通の生活に戻れる、野球と勉強だけを行き来する生活から解放されるという思いもあったと思います」
野坂は「解放」という言葉を選んだ。結果を出さないといけないプレッシャー、野球に100%打ち込むことのできない環境でのフラストレーション、そういう目に見えない重りから開放される言葉が「夏の大会中止」だったのかもしれない。この思いは当時の球児たちしかわかり得ない気持ちだろう。
そんな選手たちの心の揺らぎをすぐに感じた人の1人が佐々木 達也部長だ。
「(夏の大会の)中止が発表されたのが授業中だったんですけど、その(オンライン)授業後の10分間の休憩で、野球部の3年生が召集をかけられて、独自大会があるかもしれないなどの話をされました。浮ついた気持ちの中でもギリギリでバラバラにならずにチームとしてまだ野球と向かい合おうと思えたのは、達也さん(佐々木部長)のその一声が一番大きかったと思います」
クラーク記念国際は、チームとして空中分解せずに独自大会に向かっていった。そして北海道の頂点へ登り詰めたのである。
「独自大会で優勝したときは、やっぱり北海道で一番になれた嬉しさはありました、ただやっぱり負けて終われなかった。自分たちの力をもっと上で試したかったのに、それができなかったというのが悔しいというか、最後まで仲間と挑戦したかったというのはあります」
独自大会で優勝しながらも、消化不良がおこる。これもまた、独自大会を勝ち抜いた球児にしかわかり得ない気持ちである。では、この消化不良はどうなったのか?野坂は正直な思いを伝えてくれた。
「この気持ちが消化できたかどうかでいうと、時間が解決してくれたというか風化していったというか、ただ当時そのモヤモヤがあったお陰で、今僕はアメリカで野球を続けている。もっと高みに挑戦したいという思いが逆にできたというか、もし完全燃焼していたらそこで野球をやめて、まったく違う大学生活を送っていたかもしれない。今になって思えば、完全燃焼をするためにアメリカに野球をしにいるわけだし、それをポジティブな方向に変換できたのは良かったと思います」
驚いた読者もいるかもしれない、野坂は消化不良の気持ちを渡米して野球を続ける原動力に変えたのである。野坂がプレーしているのは米カリフォルニア州にあるマセドーカレッジだ。野坂はマセドーカレッジで文武両道を貫いて戦っていたのである。
では、なぜ野坂は当時の状況をポジティブに捉えられたのだろうか?その答えもまたクラーク記念国際にある。
「指導者から頻繁にポジティブな言葉をかけ続けてもらっていました。『春の大会もなくなった』などコロナ禍で起こることが、ほぼネガティブになる状況で、どうしても前へ前への進めなければならない、そういう中で、ポジティブに前に進む言葉を指導者がかけ続けてくれました。だからこそポジティブなメンタリティーがチームに根付いていったと思います」
コロナがあったから良かった。そう言える野坂は、クラーク記念国際時代に身についけたプラス思考で米国で躍動している。これから野球を続けるのか、はたまた米国で起業をするのか、どちらにしてもポジティブでいる限り野坂はどこにいても輝き続けるだろう。
編集後記
「今思っても当時の高校生活はかなり厳しかったと思います(笑い)。ただ、寮生活はつらい思いでもありますが、そこでしか味わえない経験もたくさんあって、仲間とともに24時間ずっと生活して、いろんな辛いことや嬉しいことを全部共有できたので、とくに嬉しいことがあったときは何倍も嬉しかったですし、そういう気持ちを分かち合えたといういい思い出はたくさん残っています」
とにかく明るく応えてくれた野坂、厳しい寮生活も野坂の話を聞いていると楽しく聞こえる。きっと野坂の回りには笑顔が溢れていたに違いない。