激戦区の神奈川を勝ち抜き、2年連続20回目の出場を決めた横浜。初戦も突破し、さらに注目度が高まっている。今回はそんな今年の横浜ナインをよく知る先輩にお話を伺った。
それが延末 勧太内野手(1年=日本体育大)だ。下級生からベンチ入りし、昨夏は控え選手ながら甲子園に出場した。
なぜ延末に話を伺うことになったのか。それは8月から開催されているフューチャーズリーグがきっかけだ。フューチャーズリーグとは、まだリーグ戦に出場できない大学1、2年生が各連盟の枠を乗り越えて、リーグ戦形式の新人戦を行っており、日本体育大、慶應義塾大、國學院大、桐蔭横浜大が参加している。このリーグを特集するとともに活躍を見せた選手にインタビュー取材しようと考えていた。
取材したフューチャーズリーグの試合で印象的な活躍を見せていたのが延末だったのだ。
延末の野球人生や横浜時代の話を伺っていくと、非常に興味深いエピソードがあったので、紹介したい。
チーム再建に動く村田監督に心を動かされた
延末 勧太内野手(横浜ー日本体育大)
中学時代は名門・世田谷西シニアでプレー。現在の日本体育大にはコッシーオ投手(日体大柏出身)を含め、5人もチームメイトがいた。
そんな延末が横浜に進んだきっかけとは。
「世田谷西シニアの一学年上の先輩である木下幹也先輩(横浜高ー巨人)に憧れを持っていて、木下さんとプレーしたいと思い横浜を目指そうと思いました」
延末は1年生から公式戦に出場。首脳陣からの期待は高い選手だった。
高校2年となった20年4月1日。これまで公立の神奈川白山を率いていた村田監督が横浜高校の監督に就任した。
村田監督はどんな監督だったのか。
「とても熱い人でした。チームを変えようとしてくれて。
最初はコロナがあって就任されてから、チームがすぐ解散になってしまい、夏の地方大会もないということで、上手くいかないことが多かったのですが、チームを変えようとしてくれて、今の横浜につながっていると思います」
また練習内容にも変化があった。
「一球に対する執念というか、練習時間が長い中で、いかに濃くできるか突き詰めている監督なので、一球ミスしたらみんなで指摘しあって、一球にこだわっている監督で、一球に対する思いは変わりました。私生活も厳しくしてもらいました」
特に厳しかったのは掃除だったという。
「寮生活のときは自由時間はありましたし、縛られてるわけではないのですが、掃除には厳しかったです。毎朝、全員が寮の中を掃除して、そこからご飯という感じで、その時間はとても厳しかったです」
一気に変わったチームの雰囲気や、チームの細かな取り組み。最初は戸惑いながらも、チーム再建のために動く村田監督に選手たちも感化されていった。
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甲子園は人生を変える場所
延末 勧太内野手(横浜ー日本体育大)
「最初は温度差が多少ありましたが、ここまでやってくれた村田先生を甲子園に連れてって恩返ししようという思いがありました」
最後の夏、横浜は県内で圧倒的な勝ち上がりを見せ、18年以来、3年ぶりの甲子園出場を決めた。村田監督のために甲子園に出場する思いを叶えることができ、延末は喜んだ。
「2回戦で負けてしまいましたが、甲子園に連れていくことができてよかったです」
最後の夏で、初めての甲子園。延末は広島新庄戦で代打として出場した。グラウンドに立って、改めて甲子園の偉大さ、凄さを実感した。
「個人的には結果を残すことができませんでしたが、村田先生とやっていく中で甲子園は人生を変えてくれるところだぞと日々言われていて、それを信じてやっていて、実際、帰ってきて見える世界が変わりましたし、甲子園に行けてよかったです。
甲子園に入った時に感動したわけじゃないですけど、これを目指してやる価値があったなと感じました。周りからの反応もそうですけど、甲子園の大きさを感じました。無観客試合でもそれを感じたのですから、甲子園は凄い場所だと思います。
今年は観客ありですが、羨ましいです(笑い)」
延末は日本体育大へ進学。体育教員になることが夢だった。
「体育の教員に興味があって、体育の教員免許を取れる大学を探していて、村田先生が日本体育大のOBだったので、紹介してもらった形になります」
自分の夢を目指し、さらに大学野球で活躍するために毎日、レベルアップに励む延末。フューチャーズリーグでの活躍の土台となっているのは、横浜高校の3年間であったことは間違いない。
後編では、今年の横浜ナインの選手たちについて伺ったエピソードをお伝えします!