鈴木裕太(日本文理)『信越の剛腕』誕生の瞬間 【前編】
今からちょうど2年前。ある男の進路に、新潟県の、いや全国の高校野球関係者が注目した。鈴木裕太、中学3年生。新潟シニアで名を馳せた県内屈指の本格右腕。140km/hを超えるその伸びやかなストレートに多くの関係者が魅せられ、全国の名だたる強豪校から声が掛かった。そんな鈴木が選んだ進路は、日本文理。地元・新潟から、甲子園優勝をもくろむ超高校級右腕が描いた、これまでの“成長曲線”と、これから描く全国制覇への”ロードマップ”とは?
中学時代の四股踏みトレーニングで才能開花
鈴木裕太投手(日本文理)
「口数の少ない男だから、うまく聞き出してよ」
取材前、鈴木崇監督の記者への言葉に、近くにいた鈴木裕太は少し困ったような照れ笑いを浮かべた。
「よろしくお願いします」
室内練習場の一角で暖を取りながら、話を進める。監督の言うとおり、饒舌(じょうぜつ)ではない。だが、投げ掛ける質問に真摯(しんし)に向き合い、ぼくとつながら丁寧に、ひとつひとつ、強い意志を込めて言葉を紡いでくれる姿が非常に印象的だった。
今回、約1時間にわたって、これまでの野球人生、そしてこれからについてたっぷり語ってくれた。
「4歳上の兄が野球をやっていて、その姿を見て小学2年生の時にチームに入りました。最初のポジションはサード。同学年は最初自分しかいなかったんで、先輩に混じって空いてるポジジョンに入ったのが最初でした。身長は大きかったんですけど、(野球は)全然うまくなかったです」
というものの、恵まれた体格とスポーツをやっていた両親のDNAを受け継いで徐々に頭角を現す。小学校高学年で投手と外野手を兼任、中学へ進み新潟シニアに進むと、ここで運命の出会いを果たす。この出会いがあったことで、鈴木の投手としての才能が開花し、速い球を投げる能力はさらに進化する。
「中学2年から3年にかけての冬場の下半身メニューで、『四股ふみ』をやったんです。シニアの監督の知り合いの方で元力士の方がいらっしゃって、四股ふみをはじめ、力士の方がやっているトレーニングを教えてくれて。それで冬の時期に下半身を鍛えることを重点的にやったんですね。そうしたら球速がこれまでより10km/hくらい上がったんです。それを実感したのは、週末の練習で投げ込みをしたとき。土・日曜の2日間だけでキャッチャーミットのヒモが切れて、それ以降週1でミットを修理に出していました。あと、下半身が安定すると球速だけじゃなくて、コントロールもまとまりがでてきて。冬の練習ってなかなか大変なんですけど、そのときにこの時期の練習の大切さを感じました」
それまでMAXが130km/hそこそこ。もちろんその時点で既に好投手ではあるのだが、その中学生がひと冬超えMAX140km/hを超えた。だがエースとして臨んだ最終学年、全国制覇には届かなかった。
地元で甲子園優勝したい思いが強かった
鈴木裕太投手(日本文理)
「信越大会で準優勝して全国大会に臨んだんですけどベスト16。その大会は、1試合完投したら次の試合は三回までしか投げられないという連投の規制があって。その2試合目で負けてしまったんです。負けた試合も、最終回に4点差を追いつかれ、その後にマウンドに立って、結果的にタイブレークで負けてしまって。最後打たれてしまったのは自分の中でもショックで。チームを勝たせられなかったことに責任を感じました。日本一を目指してやってきたんですけどかなわなかったので、今度は高校で日本一を目指そうと思いました」
全国制覇に届かなくても、MAX140km/hを超える中学生投手はそういない。鈴木の元には全国各地の強豪高校からオファーがあったという。
「ありがたいことに県外のいろいろな高校からもお声がけいただきました。県外の強豪校も一瞬考えましたが、やっぱり地元で野球して、新潟県から日本一を経験したいという思いが大きかったので日本文理に進学しました。まだ新潟は春の選抜、夏の甲子園含めて優勝したことないので。実家も日本文理から近くて身近な存在でしたし、新潟シニアの先輩もたくさん進学されているというのも大きかったですね」
日本文理で日本一に。そう目標を立てた鈴木は、中学3年の最後の大会で負けてからも本格的にトレーニングを継続。「それまでヒョロかったんです(笑)」という体格から、10kg以上増やし、ガッチリとした高校仕様の体で日本文理に入学。周囲からの大きな期待通り、1年春からベンチ入りするが、自身が想像していた以上に高校野球の世界は大変だった。
【後編に続く!】
(文・町井 敬史)