飯塚 悟史選手(日本文理高等学校) 【前編】
昨秋の北信越大会優勝、明治神宮大会準優勝、今年春の選抜こそ初戦敗退だったものの、夏も甲子園ベスト4と安定した強さを見せてきた日本文理。その立役者とも言えるエースの飯塚 悟史は、常時140キロ前後のストレートを制球良く低めに集めるピッチングが魅力で、BFAアジア選手権の日本代表にも選ばれ、プロのスカウトがマークするほどの逸材。
中学時代から注目されていた選手だったが、本格的に頭角を現したのは2年秋の新チームになってから。それまでどのような経験を積み、どのような成長を遂げてきたのだろうか?今回、「成長力」をテーマに飯塚と大井監督に話を聞いた。
下級生のときはスピードを追い求めていた
飯塚悟史選手(日本文理)がんばらんば国体2014 大阪桐蔭戦より
――日本文理高校への進学を決めた理由は?
飯塚 悟史(以下「飯塚」) 中学1年の時に(2009年の)準優勝を見て、今まで1回戦敗退が当たり前だった新潟県にこんな成績を残せるチームがあるんだと、すごく感銘を受けました。新潟県の高校で甲子園に行くというのがずっと夢だったので、ここしかないと思ったんです。
あと中学の時は、自分で投げて、鎌倉と僕が打つみたいなチームだったので、打力のあるチームに行きたかった。だから強打の日本文理は魅力的でした。
――1年生の時から公式戦に登板。当時の投球を振り返ると今とは別人のような投球でした。
飯塚 当時は、スピードばかり追い求めていましたね。速ければ打たれない、速ければ勝てると考えていました。結果、フォームを崩して、コントロールも悪く、ケガをしたりしていました。考え方が中学生の延長線上で、甘かったですね。
――スピードへのこだわりを捨てたのはどういったキッカケからですか?
飯塚 2年夏の新潟決勝(対村上桜ヶ丘戦)がきっかけです。勝たなければならない試合の中で、満塁の場面からリリーフで出て、打者1人に四球を出して交代。試合には勝ちましたが、すごいショックを受けて、心から喜べない試合でした。そのあと、甲子園でも背番号1を付けさせてもらって、自分が先発すると思っていたので、先発ではないと聞いた時はショックでした。
4番手で(試合の形勢が決まった後に)投げた事が、すごく悔しかった。だから普段から監督の信頼を得られるような行動とピッチングをしようと思いました。
2年夏の屈辱が勝つ投球を追求へ
飯塚悟史選手(日本文理)第10回 BFA 18Uアジア選手権 中国戦より
――新チーム後、飯塚投手はエースとして期待されると思いますが、大井監督はどんなことを話しましたか?
大井 新チーム後に話をして、『お前は勝ちたいのか』って聞いたら『勝ちたい』って言う。『じゃあ、今のピッチングじゃどうしようもないだろう。四球が多い。四球を出したら勝てないぞ。どうしたらいいんだ?』と言えば、『コントロールです』と言う。
『じゃあ四球を出さないピッチングをしよう。お前がコントロールを意識したって、他のピッチャーより速いのだから。コントロール重視のピッチングをやろう』って。本人が『勝ちたい』って結論出した時からピッチングが変わりました。プロなら負けたって次がある。しかし高校野球は負けたら次がない。勝ちたいならピッチング変えないとしょうがないです。
――大井監督と話してどう変わっていきましたか?
飯塚 実際、そこから自分の考え方、求めるものを変わりました。まずは、周りからの信頼だと思ったので、チームメイトとも積極的にコミュニケーションを取って、自分がマウンドに立って『飯塚のために』と思ってもらえるようなピッチャーになることを決めました。
技術的には、まずはコントロール。自分の思うようなカウントを取らないといけないので、カウントの取り方を頭でしっかり考えるようになりました。前まではツーボールから始まってしまったりとか、自分が不利な状況の中でスタートすることが多かったのですが、平行カウントを作ったり、ストライクを取りたいときに取れるように、投球練習から意識していました。
――秋の大会では、フォームをスリークオーターにして投げる姿が印象的でした。
飯塚 それまではテイクバックが大きいオーバーハンドで、自分のバランスが使えていないような状況だったので、自分に1番あった動きはなんだろうと考えました。結果的に、スリークオーターのような横の回転で投げるフォームが自分に合っていると思ったので、腕の位置を下げました。スピードへのプライドは捨て、とにかく勝てるようになりたかった。スピードは平均で2~3キロ落ちて、130キロ台中盤くらいでしたが、軽く投げているように見えて、球がピッとくるような球質を目指していました。
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明治神宮大会決勝の逆転負けが細かな意識を高めるきっかけへ
飯塚悟史選手(日本文理)第44回明治神宮野球大会 沖縄尚学戦より
――大井監督の目にはどう映りましたか?
大井 私は『自分で腕が一番振れる位置で、コントロールしやすければそれでいい。担ぎ上げて上から投げて、球がうわずるなら、腕を下げてもいいじゃないか』くらいのアドバイスはしたけど、私がこうしろと指示したわけではないです。
他人に言われてやるようではダメ。本人が納得してやらないと。だから飯塚は自分で納得したフォームを見つけたのです。
――その甲斐あって、チームは北信越大会優勝、明治神宮大会でも準優勝の好成績を収め、翌春の選抜出場も決めました。冬はどのような意識で練習に取り組んだんですか?
飯塚 冬の練習では、何でも最後までしっかりやり遂げることを意識して練習に取り組みました。それができなかったから、神宮大会の決勝(対沖縄尚学戦)であんな負け方をしたので。
例えば、ダッシュのときにゴール直前で力を抜くのではなく、ゴールするまで力を出し切る。そういう細かなところを意識しました。
技術的には、体の使い方をしっかり理解しようと思いました。体の使い方が分かっていれば、試合の中でもしっかりと修正できます。また肩甲骨をしっかりと動かせるようにトレーニングを行いましたね。いろんな人に話を聞いて、マエケン体操みたいなことをやって、自分の体がどう動いているのかを鏡でしっかり確認しました。
実際、肩の可動域も広がりましたし、テイクバックの使い方が、今日は少し大きいなとか、投げていて分かって、しっかり修正できるようになりましたね。自分の体を知った上で、体にフォームを叩き込んだという感じです。同時に、チームメイトに打者心理を聞き、実戦を意識した練習していました。
(インタビュー・編集部)