県立三本松高等学校(香川)【前編】
4月24日・文化庁によって「日本遺産」に認定された『「四国遍路」~回遊型巡礼路と独自の巡礼文化~』。いわゆる弘法大師・空海ゆかりの寺院を88か所巡る「お遍路」だ。
その結願の地として知られる大窪寺から北東に20kmほど進んだ所にあるのが1900年(明治33年)創設の香川県立三本松高等学校。その野球部も1910年(明治44年)創部・夏は1984・1993年、春は2005年と計3度の甲子園出場経験を持つ県内屈指の伝統を誇る。
そんな三本松では昨年4月から指導陣が一新された。指揮官・投手コーチはいずれも70歳代。傍目に見ると時代に逆行するような動きにあっても、今年は最速144キロの好左腕・三好 大倫投手(3年)を輩出。下級生にも好投手が生まれようとしている。
では、なぜこのような現象が起こっているのか?前編では指導者たちの話を通じ「温故知新」の投手育成法を探る。
難しい練習環境下でも好成績・好投手が生まれる理由
投手陣を主に担当する三本松・松田 正和コーチ
「ここにも、ここにも、あら、ここにも。この角にも」
JR高徳線・三本松駅から学校まで、距離にして歩いて5分程度。その道沿いにあったのは4つの「学習塾」であった。東かがわ市一円を中心に徳島県境までの高校生を一手にカバーする県最東端の高等学校・三本松ならではの光景である。
よって三本松では部活動もテスト前は「授業終了後2時間」の制限がある。取材日の練習も6時間授業の3年生選手6人は15時過ぎから、7時間授業の1・2年生選手30人は17時前から。そのため全員で練習できる時間は60分程度しかない。チームプレーが勝敗を左右する野球においては、非常に難しい環境である。
にもかかわらず、この一年間における三本松の復調は著しい。昨春県大会では桑嶋 裕二・前監督(現:津田高部長)の下で松本 拓己(現:愛知学院大1年)、森髙 達也(現:九州総合スポーツカレッジ1年)の3年生右腕2枚が機能し11年ぶり4度目の優勝。第1シードで迎えた夏は3回戦で、優勝した坂出商に無念のコールド負けに終わったが、旧チームでは「1番・中堅手」だった左腕・三好 大倫(3年)がエースに座ると、昨秋は県準々決勝で後に四国大会優勝・センバツ出場を果たす英明と延長11回の激戦を展開。今春も最速144キロまで球速を伸ばした三好の活躍で県大会3位に入り、夏の香川大会第4シードを獲得した。
その原動力には小林 明弘部長、同校OBの日下 広太副部長(順天堂大~BCリーグ<当時名称>・石川ミリオンスターズ~新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ)、そして昨年4月から野球部に関わるレジェンド指導者たちがいる。
「勉強もちゃんとして試合に強いからこそ、値打ちがあるんですよ」
下級生内野手へのノックを打ち終えても肩で息すらすることなく、こう言って背筋を張る岡田 紀明監督・74歳。「三好(大倫)は旧チームまで外野手だったので、身体の力は持っていましたね」と語る松田 正和投手担当コーチ・72歳。この2人こそが三好 大倫を四国屈指の左腕に引き上げた仕掛け人である。
「根性論でなく」理詰めで、自主性を重視する投手指導
練習を終え、礼を交わす三本松・岡田 紀明監督と選手たち
「甲子園で150キロを出すスーパーマンは別にして、コントロールのいい投手が勝ちますよね。遅いボールを速く見せるために、際どいコースに投げるとか、意識してボールのコースへ投げて凡打を誘ったり、ファウルでカウントを整える。そして決め球。これを投げ分けられる『投球術』が大事だと思います」
「勝てる投手とは?」との質問に対し、岡田監督は即座に返答してくれた。
それもそのはず。現役時代は1958年夏・1959年春に高松商の三塁手として甲子園連続ベスト8に貢献。1958年春の四国大会決勝では1学年上の徳島商豪腕・板東 英二(元中日・現;タレント)と延長25回の死闘を繰り広げ、その後は早稲田大で1962年春には二塁手部門でベストナインを獲得。社会人の名門・河合楽器(浜松市・現在休部中)でもプレー。
その後、母校・高松商で2回監督に就任。1968年夏には1年生の大北 敏博(元巨人など)を三塁手に大抜擢し甲子園1勝、1989年秋には、鳴門(徳島)、西条(愛媛)、新田(愛媛)を下し四国大会優勝。翌年春のセンバツベスト8に導いている岡田監督。「序盤にエースだった山本 雅章(近大~プリンスホテル)のカーブを徹底的に狙われた」と当時新田の主将だった岡部 利一氏は旧懐している。
24年の時を超えても、そこには色あせない「歴戦の策士」らしい理詰めの考えが込められているのだ。
その一方で、指揮官は投手指導については高松商監督時代1990年センバツでもタッグを組んだ松田 正和コーチに指導を一任している。コーチの経歴を見ればそれも納得だ。
松田コーチは1959年春には2年生エースとして岡田監督と共に甲子園を経験すると、翌年春には「5番・捕手」で高松商33年ぶりの全国制覇に大きく貢献。さらに卒業後は社会人・電電四国(松山市・後のNTT四国。現在は廃部)で内野手・外野手。「投手心理・捕手心理・打者心理」の全てを知るエキスパートとして、愛媛県では伊予農・松山城南の野球部立ち上げ時、香川県でも志度・高松商などで野球部指導に関わってきた。
「投球技術は自分で会得したら忘れないもの。僕は投手が迷いだしたら教えればいいんです。そして一度教えても、身体と心のバランスがしっくりいかなかった時は、今までの教えを取り消す勇気も必要だと思いますね」
このように根性論に走らず、あくまで自主性を重視。さらに投手の状態を常に観察し、最も適した指導を施すことの大切さを説く松田コーチ。自らを全く誇ることも、飾ることもなく見せる笑顔は「スペシャリスト」ならではの含蓄に満ちている。
前編では岡田監督と松田コーチの指導論を伺った。ここはあくまで触り。後編ではどのようにエース三好投手のポテンシャルを引き出していったかを明らかにしていきたい。
(取材/文・寺下 友徳)