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第457回 愛知県立旭丘高等学校(愛知)「かつて“100球国愛知”を引っ張った歴史と伝統を背負って今も…」2017年11月16日

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【目次】(ページ下部のフォトギャラリーもチェック!)
[1]150年近くの歴史がある伝統校
[2]限られた条件の中で掲げているのは?
[3]13人の部員をまとめる主将・岩下 舜典選手から一言

 この秋、旭丘秋季愛知県大会3回戦まで進出した。このことは、県高校野球としても大きなニュースである。だから、オールドファンを含めて、愛知県の高校野球ファンの間では俄かに旭丘に対しての注目が高まった。というのも、旭丘はかつての愛知一中の流れを汲む、県内一の名門校と言っても過言ではない存在だからである。現在、1年生が4人、2年生が9人でマネージャー2人という小世帯だ。限られた条件の中で、旭丘野球部はどのような意識で取り組んでいるのか、訪ねてみた。

150年近くの歴史がある伝統校



市内県立校大会で準優勝となった旭丘ナインは全部で13人

 学校創立は1870(明治3)年だから、150年近い歴史を有している伝統校である。野球部の創部も高校野球の前身となる中等野球の始まりとなった第1回大会(1915年)よりもなお古く、1893(明治26)年で、県内最初の野球部ある。だから、創部以来の歴史としても、124年の歴史となる。そして、中等学校野球の草創期は全国的にも強豪校として鳴らしており、第3回大会では全国制覇を果たしている。当時、その大会に限って導入されていた敗者復活戦システムの恩恵で、決勝に進出。決勝では雨天再試合を経て、延長14回で関西学院を下して、唯一の一度敗戦しながらの優勝校という珍記録もある。当時はまだ甲子園球場が出来ておらず、鳴尾球場時代の栄冠であった。

 この優勝が、その後の“球国愛知”を作っていく礎となっていくのだが、甲子園出場実績(23年までは鳴尾)は夏7回、春4回という実績を残している。もっとも、それらはすべて戦前の愛知一中時代のものであり、1929(昭和4)年のある夏以降は出場がない。とはいえ、その伝統は長く継承され続けている。

 そんな歴史を示す象徴的なものが、レトロ感たっぷりのユニフォームだ。戦闘帽のような筒状の白地に2本線だけの野球帽と、胸の真ん中にドカンと示されている鯱が一対「旭高」の文字を挟んでいる校章だけというスタイルは、明治時代からのものである。ちなみに、かつては「旭高」の部分が「一中」になっていたという。いずれにしても、その雰囲気が21世紀となり、平成の今の時代になっても変わらず継承されているのだ。

「最初は、ちょっと戸惑いもありましたけれども、今は、誇りだと思っています」

 この秋から、副主将にもなっている前川虎太郎君はそういう思いで伝統のユニフォームに袖を通している。

 とはいえ、県下屈指の進学校でもあり、野球部を取り巻く環境はかつての栄光や伝統には関係なく厳しいものがある。この春の大学進学実績でも東京大37人、京都大40人、名古屋大49人という合格者を輩出している。当然のことながら、入学試験のハードルも高い。中学時代の内申書で言えばほとんどオール5で、4があったとしてもせいぜい1つか2つという高い学力が求められる。もちろん、スポーツ推薦などの特別枠などはあるはずがない。だから、そんな厳しい入試を通り抜けてきた生徒たちだけで集まった野球部である。

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